五時半に起床し、六時から一日の活動を始めたからであろうか、午前九時を迎える頃には今日の試験に向けた学習の最後の詰めをほとんど終わらせることができた。これからもう少し学習を進め、一旦そこで午前の学習を終える。
昼食を摂り、試験が始まる直前にまた最後の確認をすればもう十分だろう。午前中の最終確認を全て終えてもまだ時間が余りそうであるから、過去の日記を編集することや作曲実践に時間を充てたいと思う。
書斎の窓から外を眺めると、先日から開始された道の工事がだいぶ進んでいることに気づいた。早朝の七時半ぐらいから仕事を始める作業員たちの姿を私はほぼ毎日見てきた。
彼らが人の目につかないところで絶えず仕事を少しずつ進めていた成果がまさにここにある。継続して仕事に取り組むことの意義、少しずつ自らの仕事を絶えず前に進めていくことの意義を実感する。それは少しずつ、そして着実に形となって現れてくるものなのだ。
数日前にノーダープラントソン公園にランニングに出かけた時、天気がとても良く、公園の芝生にマットを広げて本を読んだり、談笑したりする学生たちの姿をちらほら見かけた。なぜかその光景が今もとても印象に残っている。
青空の下で書物を読んだり、仲間と語り合うことの素晴らしさをあの光景は自分に伝えているのかもしれない。開放的な空間の中で書物と向き合うことや他者と対話することの中に何かかけがえのないものがあるように思えてくる。
これからフローニンゲンの街がより春らしくなってくれば、そうした人たちの姿をもっと見かけるようになるだろう。私は公園で書物を読んだり、他者と語り合ったりすることはないかもしれないが、他者のそうした姿を見ているだけでもどこか幸福感が生まれてくる。そうした幸福感を感じられるだけで十分だ。
先ほど改めて、治癒と変容の関係について考えていた。それらはどうも表裏一体の関係にあるらしい。
治癒による変容と、変容による治癒の双方の現象が存在していることに気づく。この世界に存在する様々な認識上の病理を治癒によって変容させていくことと、変容によって治癒していくことの双方がこの現代社会に求められているように思える。
治癒と変容は全ての生きとし生けるものに不可欠なものであるのと同時に、この社会にも不可欠なものである。以前の日記で書き留めていたように、そうした治癒と変容の双方に携わることが自分に求められていることのように思えてくる。
その関与を行う力として、科学、哲学、芸術が必要になる。だから私はそれら三つの領域を深く探究しようとしているのだ、という気づきを得る。
科学、哲学、芸術の力を借りながら、この現代社会の治癒と変容に向けた取り組みを少しずつ継続して行っていく。誰も見ていないところで働くあの作業員たちのように、この社会に少しでも関与していくような歩みを今日も進めたい。フローニンゲン:2018/4/12(木)09:25