先ほど、協働プロジェクトに関するオンラインミーティングが終わった。昨年一年間をかけて作り上げた成人発達理論に基づくプログラムがいよいよ世の中に提供されることになった。
協働者の方々の仕事にはいつも感銘を受け、この一年間は濃密な協働関係の中でこのプログラムの開発を進めてきたように思う。それがようやく形になり、いよいよ世の中に提供されると思うと、どこか感慨深い。
この感覚はもしかすると、書籍を世に送り出す感覚に近いかもしれない。他者と共に作り上げた創造物をこの世界に提供していくことの意義と喜びのようなものを同時に噛み締めている。これからも意味と価値のあるものを創造し、それをこの世界に共有していくことを続けたい。
ミーティングが終わると、書斎の窓の方に歩み寄り、窓越しに外を眺めていた。目の前の裸の木々が優しい風に揺られている。
見ると、木々に小鳥が数羽とまっていることに気づいた。私はぼんやりとその小鳥たちの様子を眺めていた。
日々を咀嚼するということ。日々を本当に深く味わうということ。そうした生き方を大切にしたいと改めて思う。
現代人の病の一つは、日常を消費対象と見なしていることなのではないだろうか。現代人は無意識的に日常を消費することに飼い慣らされており、日々の小さな出来事に潜む尊さや深みを蔑ろにしすぎてはいないだろうか。そんな問いが頭の中をよぎる。
日常をいくら消費しようとしても、日常の中に充実感と幸福感を見出すことはできない。なぜなら、日々の充実感や幸福感は消費されえぬものの中に潜んでいるからだ。
充実感や幸福感の宿る場所は事物一つ一つの深みである。事物一つ一つの中に意味の深さを見つけることはできないだろうか。
なぜ人々は、事物の表層的な意味にしか着目をしないのか。その表皮の奥にはもっと深遠な意味が隠されているのに。
明後日から中欧に行くことが幾分信じられない。フローニゲンからワルシャワやブダペストに行くことは、私の中では隣町に行くのとあまり変わらないことのように認識されているのかもしれない。
これはもちろん、肯定的な意味においてである。つまり、旅に対する冷めや新たな場所に対する冷めとは正反対に、旅と新たな場所への敬意の念が自分の内側に完全に充満し、その充満さが一見すると冷めのように思える態度を生み出しているのだ。
しかしこれは冷めではない。必然の道を歩むことへの自己委譲の念だと言えば分かりやすいかもしれない。
なぜワルシャワとブダペストに行くのか?その理由を自分の考えの枠組みから答えることは確かに可能だが、それらの回答を超えた理由がそこにはある。
そうした理由が存在していることを知っているがゆえに、もはや完全に自己をこの世界に明け渡しているのだ。そうした明け渡しの感覚が、今の自分を包んでいる。
だからこそ、明後日の早朝に中欧に向けて出発することに対してまだ現実感を持っていないのかもしれない。中欧に向かうことは現実感を帯びる帯びないという問いが挟まれる余地はなく、そこに向かうのは自分にとっての必然なのだ。
日常を深く生きるということ。それは西欧において中欧においても変わらず、この世界のどこに自分がいようとも変わらない生き方なのだと思う。フローニンゲン:2018/4/11(水)10:59