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2381. どこまでも広く深まる感謝の念


小鳥とバッハ。両者はコインの表と裏の関係にある。いや、両者は一つのコインとして、一者としてこの世界に存在している。平均律クラヴィーア曲集と小鳥の鳴き声を朝から今までずっと聴きながら、そのようなことをふと思う。

書斎の窓から見える赤レンガの家々の前を通る道は、数日前から工事が始まった。工事にあたる作業員は朝の七時から働き始めている。これは毎朝私の心を強く打つ。

昼食を摂る食卓の窓からも作業の様子が見え、今日の昼食時には犬の散歩をしている人と作業員が何やら談笑をしていた。その光景を見て、私はとても幸福になった。

大げさでも何でもなく、その光景の中に人間として生きることの喜びがあった。今もまだ工事は続いており、耳を澄ませば作業員が動かす機械の音が聞こえて来るかのようだ。

先ほどのオンラインミーティングの後に仮眠を取っている時、この世界で生きていることへの感謝の念をどのように言葉にすればいいのかをふと考えていた。より正確には、感謝の対象と範囲について考えを巡らせていたのである。

ベッドの上で横たわりながら、私が毎日このように日々を充実感と幸福感を持って生きていられることに関して、私を産んでくれた両親に対する深い感謝の念が生まれた。それは一見すると、ありふれた事柄のように思えるかもしれない。

しかし、私は両親に対する感謝の念がどこまでも深まっていくものであるということに改めて気づいたのである。この世界の森羅万象は無限のホロン階層を持っている。それは両親に対する感謝の念にも当てはまり、それはどこまでも無限に深まっていくものなのだ。

言葉にならない感謝の念を持ちながら、私はこの感謝の念が深さだけではなく、範囲を拡張させていくことにも気づいた。感謝という一つの生き物が、より深く、より広く変化していく姿を見て取ったのである。

両親から祖父母へ、曽祖父母へ、近親者のみならず、現在の私を取り巻く人たち、過去の私を取り巻いていた人たち・・・感謝の念を抱かせる対象範囲がどんどんと拡張していた。私は感謝の念を持つ対象があまりに広く、あまりに深いことに気づき、対象が一切掴めないところまで拡張しうることに気づかされた。

そこで結局私は、「全体」に対する感謝の念を捧げるしかないのではないか、と思うに至った。感謝の念を捧げるべき対象は、個別具体的な人だけに留まるのではなく、あるいはそこに留まってはならず、生きていることへの感謝の念はこの世界全体にまで拡張される必要がある、と強く思ったのである。

感謝の念が向かう先はこの世界全体だったのだ。なぜならその念は、そもそもこの世界全体からもたらされているのだから。

私が今このように欧州で日々の生活を送っていることの意味は、人間として生きることのこうした真理に一つ一つ気づいていくことにあるのだと思わされる。フローニゲンの空はそのように語っているし、小鳥もそのように歌っている。

自分という一人の人間がこのようにして生きていたということ、そして今そのように生きているのだということを書き留めておきたかった。フローニンゲン:2018/4/6(金)15:16

No.953: The View of the Danube

The second day after I came back from Central Europe started.

The view of the Danube is still vivid in my memory.

As well as the openness of the views, I wish my life to be much opener. Groningen, 08:24, Monday, 4/23/2018

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