復活祭の日曜日も夜の八時を迎えた。「夜」という言葉を使うのがためらわれるのは、まだ外が明るいからである。フローニンゲンの気温は相変わらず低いのだが、日没は本当に遅くなり、九時近くまで明るくなりつつある。
「今日という一日は確かに存在していたのか?」「自分は今日という一日を生きていたのだろうか?」その問いに明確に答えるためには、もはや日々の活動を書き留めることしか手段がなくなった。
一人の人間がこの世界でいかように生きれるのか?一人の人間がこの世界に関与する形でいかように生を燃焼させることができるのか?もはや私の関心はその一点に向かいつつあるように思う。
「人はいかようにして自らの真実に基づいて生き切ることができるのか?そして、その生はどのような姿でありうるのか?」私は自らの存在を通してそれらの問いに答えていきたいと思うようになった。
それらの問いを立てたのも、それらの問いに答えようと思っているのも、正直なところ自分ではない。いや正確には、それは自分であることに違いはないのだが、覚醒的な自分を超えたところにある自己がそうした問いに答えようとしていると言える。
人には様々な生き方があり、人間の可能性は無限大だという言葉を頻繁に耳にする。おそらくそれは正しいと思うのだが、その言葉だけを投げかけることは乱暴であり、その言葉を盲目的に信奉するのはあまりにもナイーブだろう。
自分という一人の人間がいかようにこの世界で生きていくことができるのか、そしてそうした自分の生き方というものを通じて、自己の可能性を含めて自己の存在をどれほど解放させることができるのか。
そこに私の究極的な関心が向かい、それを克明に文章として記録しておくことが、一人の個人的な記録を超えて、より普遍的な意味を内包した記録になるのではないかと思う自分がいる。
「ドカッ」という音のする方を見えると、一羽の小鳥が書斎の窓ガラスにぶつかる音だった。その小鳥は窓の手すりでひと休憩し、ガラスにぶつかった衝撃を癒しているかのようだった。
激しい音が聞こえたので、私はその小鳥のことが心配になった。目と鼻の先にその小鳥がいたのだが、私はあえてその場から一歩も動かず、小鳥を驚かせないように身を潜めていた。
その小鳥はしばらく目をキョロキョロさせ、頭を忙しく前後左右に振っていたが、どうやら無事だったようだ。それがわかった時、私の内側に安堵感が流れた。その小鳥はしばらく窓の手すりで休んでから再び元気良く飛び立った。
このような現代社会にあっても生の充実感を感じることができるということ、そしてそうした感覚を通じて自分なりにこの現代社会に関与していくことが可能だということ。それを絶えず絶えず書き残していくことは、明日の世界に繋がらないだろうか。
書くことが明日の自分につながるのであれば、明日の世界にも繋がってほしいと切に願う。そして、それを単なる願いに止めず、書くことが明日の自己と世界に繋がるように歩みを進め、それをまた書き留めておくのだ。
窓ガラスにぶつかっても再びこの世界に羽ばたいていった小鳥がいることを、少なくとも私だけは知っている。フローニンゲン:2018/4/1(日)20:26
No.930: Liberation
Why do we confine ourselves? Why don’t we intend to liberate ourselves from our tiny egos?
I’m always asking by myself about the meaning and significance of liberation for human beings. Groningen, 07:54, Wednesday, 4/11/2018