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2353. 全人類の復活祭


復活祭の日曜日が静かに終わりに近づいていく。今日という一日が、寄せては帰る静かな波の中で過ぎていったかのようである。

一方、私の内側の世界には非常に肯定的な意味における高波があった。その高波が音もなく静かに消えていった後に、もう夕方の時刻を迎えていることに気づいた。

今流れてきたスクリャービンの曲は何という名前なのだろうか。それは、Anush Hovhannisyanというソプラノ歌手が歌う“Romance in F Sharp Major, WoO2”という曲だった。

この曲が流れてきた時、私は思わず文章を書く手を止めた。自己の存在を鷲掴みにし、対象と自己とを完全に一体化させてくれるものこそ、当人にとっての真の芸術作品なのだと思う。

また、自己を溶解させ、作品という対象のみならず、自己を取り巻く世界との一体感を生み出すというのは、まさに美的体験の要諦にあるものなのではないだろうか。

見える。東の空に沈みゆく夕日が見える。今日も見える。昨日も見えた。明日は見えるだろうか?

今日は、昼食後にある協働者の方と対話をさせて頂く機会があり、感涙がこぼれそうになった。なぜだか私は成人を超えてからよく涙を流すようになった。

日本を離れ、米国で生活を始めてからその傾向はさらに強くなり、欧州に来てからも一層その傾向が強まった。私はそれがなぜだか最近少しずつ分かり始めている。

それは私という一人の人間が、成熟の歩みを進め、自我という構築物が純化され、自己の本質に向かっているからだろう。自我の純化が進行していくにつれて、取り巻く世界との一体感が強まっていく。

いや、そもそも自己を取り巻く世界などあるのだろうか?取り巻くものと取り巻かれるものという区別が認識に浮かぶのであれば、それは道半ばだろう。

自己とこの世界との一体化が進んで行くにつれ、自己そのものとこの世界に対する義憤の涙や感激の涙など、諸々の涙がそこにあることに気づく。この現代社会で生きることには、残念ながら感動の涙だけではなく、義憤の涙も伴う。

この現代社会で生きる私たちは、どちらの涙も流しながら日々を生きていく必要があるのではないだろうか。片方は、生きることに伴う真の充実感や幸福感を妨げるものを超克していくために不可欠であり、もう片方は、このような現代社会であっても、私たちは生の充実感や幸福感を感じることができることの証拠として存在している。

赤レンガの家々が立ち並ぶ住宅地を、一台のバイクが走り去って行った。よくよくそのバイクを見ると、何やら光り輝く旗のようなものを取り付けていた。それは復活祭を祝うためだろうか。

私たちは日々生まれ変わり、新たな復活を絶えず遂げていることを考えてみたとき、どうして今日だけある特定の人物の復活を祝おうとするのだろうか。全ての人が毎日生まれ変わり、復活を遂げているのであれば、毎日が各人にとっての、そして全員にとっての復活祭であるべきではないか。フローニンゲン:2018/4/1(日)19:59  

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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