2342.「自信」という言葉について
- yoheikatowwp
- 2018年4月11日
- 読了時間: 3分

今朝方の夢を思い出し終えると、昨夜の就寝時に考えていたことについて思い出そうとしていた。それは他の人にとっては全く重要ではないだろうが、私にとっては何か重要なことであり、新しい発見を私にもたらすものだった。
その考えについて何かを閃いた時に、ベッドの横の棚の上に置いているメモ用紙にそれを書き留めることをしなかったため、何を考えていたのかを思い出そうとしても一向に思い出すことができなかった。そのため、私は一旦書斎の席を立ち、早朝のコーヒーを入れることにした。
コーヒーの入った缶を開け、計量を始めた時に、コーヒーの香ばしい香りがした。するとその香りに喚起されてか、突然、昨夜考えていたことを思い出した。
昨夜は、意味の表皮が徐々に剥がれていく体験をしていた。とりわけ、「自信」という言葉に付着している表皮が剥がれ、これまで見えてこなかった意味が見え始めたのである。
昨夜頭の中に浮かんだのは、「自分はもはや『自信』という言葉を世間一般で通用している意味の範疇で活用することはできないが、仮にその言葉を使うとしたら、日本語で学術論文を執筆する自信は全くないが、英語でならそれがある」ということだった。
自分が頭の中で浮かべたそのフレーズをきっかけに、「自信」という言葉が指す意味について少しばかり考えを進めていた。結局、ありとあらゆる言葉には意味の階層があるように、この「自信」という言葉にも階層性があることに気づかされる。
つまり、私たちが自分の何を信じているかによって、その意味の階層が変わるのだ。例えば、往々にして「自信」という言葉は、自我を信じている場合や、自我の付着物(知識、社会的地位など)を信じている場合に使われることが多い。
一方で、そうした自我の範疇を超えて、自己そのものを信じている場合には、一段と深い次元で「自信」という言葉を発していることがわかる、というような気づきを得ていた。そこから、自分が英語で学術論文を執筆する際に感じている「自信」なるものは、どこにその根源があるのかを考えていた。
おそらくは、完全に自我を信じているわけでも、完全に自己そのものを信じているわけでもなく、その中間に自分が抱いている自信の根源がありそうだと思った。一方で、日記や作曲に関しては、もはや自我でも自己でもなく、自己を超えた何かを信じる形で創造行為に従事している自分がいるような気がする。
ここからはもしかすると、何かを信じることさえ不要な段階が待っているのかもしれない。すなわち、「自信」という言葉には、究極的には何ものも信じる必要がない段階が待っているのではないかということだ。
早朝に止んでいた雨がまたポツリポツリと降り始めた。辺りの闇も晴れてきて、今日は復活祭という祝日なのだが、この時間帯から道路に車の走る姿がちらほら見える。私もゆっくりと今日の活動を開始することにしたい。フローニンゲン:2018/3/30(金)07:19
No.926: Always Restart From Here and Now
I’ll resume my work toward the evening. Adding my comments to my musical works is a kind of editing activity for me.
With inspiration and support from my previous works, I’ll continue my lifework from here and now. Groningen, 14:51, Monday, 4/9/2018
Comentários