明るい。今日から欧州はサマータイムに入ったため、午後八時を迎えつつあるフローニンゲンはまだ明るい。
日の長さだけを取れば、もう夏の夜のようだ。だが言うまでもなく、今日も外の気温は低かった。明日はまた最低気温がマイナスになるようだ。
今思わず笑みが漏れたが、確かに「サマータイム」という名前は正しい。気温は別として、日照時間は確かに夏のようなのだ。
サマータイムということを考えながら窓の外を眺めてみると、空を飛ぶ鳥たちの動きもどこか活発なように思える。新たな季節に向けて始動を開始したかのようだ。
今日は午後から、音楽理論と音楽哲学に関する論文をひたすらに読み続けていた。合計で何本の論文を読んだかはわからない。クラウド上のフォルダにはテーマごとに分類された論文がどんどんと積み上がっていった。
文章を書くことと曲を作ることを最優先にしながらも、こうした読書というのは絶えず行っていく必要がある。なぜなら、読書は自分を深めるための最良の基礎を提供してくれるからだ。
読書によって得られた素材をゆっくりと咀嚼していくことを心がける。今日は午前と午後を合わせてどれほどの論文を読んだのだろうか。とにかく、膨大な点としてのスキーマを獲得していこう。
それらの点を線として結びつけていくのはまだ先のことである。まずは確固とした点としてのスキーマを多様な領域内に構築していく。
そうした実践を継続させていく過程の中で徐々に線としてスキーマ同士を結び合わせていく。そこから面や立体を作っていくのは随分と先の話であるし、それはもしかすると意識的になされるというよりも、膨大な投入量の後に突然やってくる無意識的な現象なのではないかとふと思う。
今日も過去の日記の編集作業に取り掛かっていると、ピアジェの認識論で面白いものがあった。それは、ピアジェが知識を私たちの身体器官の一部のように捉えていたことだ。
知識とは、私たちにとって発達する一つの器官なのである。生物が進化を遂げる過程で身体器官を発達させていったのと同様に、私たちも進化の過程の中で知識体系という一大器官を発達させていく。
この時、置かれた環境に適応するう形で身体器官が発達していく様子に私は改めて着目していた。欧州でのこの二年間を冷静に振り返ってみると、やはり自分の知識体系が欧州の土地に適応する形で発達を遂げていったことがわかる。
端的に述べれば、今の自分の知識体系は欧州に来なければ獲得されえなかったものだということにはたと気づかされたのである。日々何気なく欧州で生活をし始めている自分がいるが、やはり日本人の私にとってはいつまでもこの環境には異質性が伴っているはずである。
これまでの私はまさに、こうした異質な環境に適応しようとする運動に無意識的に従事し、その結果として今の自分の知識体系があるように思う。そして、この秋から再び米国に戻るかもしれないということは、また新たな環境へ自己を投じることを意味し、それはすなわち再度新たな知識体系を構築していくことを意味しているように思う。
米国に行くのか行かないのかは、もはや運命のみが決めることだ思い始めている。米国に戻るにせよ、欧州に残るにせよ、どちらも喜んで受け入れようと思う。フローニンゲン:2018/3/25(日)20:00
No.908: Vernal Lullaby
After the Easter holidays, a new week began.
The outer world seems to song a lullaby. Groningen, 08:57, Monday, 4/2/2018