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2293. 縁起を通じて生きること


白い光を知覚する体験、および白い光で構成された書物を読み進めていた体験についてまだ少しばかり考えている。あの体験そのものというよりも、その体験を引き起こした要因について考えている。

とりわけ、自らの意識の状態と段階の特性について考えを巡らせている。あの体験の特徴から察するに、自分の意識の状態と段階がどのようなところにあったのかはだいたい見当がついている。

その見当を検証するために、先程本棚から引っ張り出した書籍を読み進めていきたい。そもそも、この体験をする前夜から少しばかり自分の意識状態が普段とは異なっているように思えた。

そして、それに対応する形で、意識の段階に小さな飛躍が生じているのを感じていた。それは非常に微細な飛躍であるが、確かな移行であるとも言える。

昨夜考えていたことの中で印象に残っているのは、縁起の話である。果たして私はこの二年間の日記の中に、「縁起」という言葉を使ったことがあっただろうか。明確には覚えていないが、ほとんどなかっただろう。

確かに、縁起の意味とほぼ同義である言葉を知らず知らず使っていたことはあるかもしれない。だが、縁起という言葉を明確に用いたことはこれまであまりなかったのではないかと思う。

昨日考えていたことの趣旨をもう一度振り返ってみると、この世界のありのままを肯定する態度には質的差異があるということだった。この世界のありのままを単に字面上肯定する生き方というのは、この世界で生じる現象に付与されている意味の創造に参画しないというものだった。

そこには、単にこの現実世界の現象を傍観するような態度しかなく、この世界への積極的な関与というものがない。この世界は、私たちが創造する意味で溢れており、一つ一つの事象はまさにそうした意味の塊である。

そして、意味というのは絶えず生成され、深化の方向に向かっていくことを本質とする。そうした絶え間ない意味の深化に寄り添いながら参画していくことが真の意味での如性を通じた生き方だろう、というのが昨日に浮かんでいた考えであった。

改めて考えてみると、やはりこの点は非常に重要なように思える。この世界で絶え間なく生み出されていくはずの意味が停滞し、その場で滞る時、それは社会病理として立ち現れる。

社会的な病理とは、意味の停滞と意味の機能不全から生み出されるものなのではないかと思う。それは個人においても同じだろう。

絶えず絶えず瞬間瞬間に千変万化する私たちと取り巻く世界にあって、意味の創造が停滞することは死活問題である。一夜が明けて改めて思うのは、自分のなすべきことは、意味の創造への積極的な参画なのではないかということだ。

縁起を通じて生きるというのは、この世界で絶えず創出される意味の織り物を他者と共に織り続けていくことなのではないか。フローニンゲン:2018/3/19(月)08:25     

No.893: Schemas and Music Composition

While reading some articles about cognition and learning, I realized that I need to acquire more robust and broad schemas for music composition so that I can compose various music at will.

These schemas can be obtained from reading and practice.

I’ll pay a careful attention to schema acquisition in music composition. Groningen, 11:58, Sunday, 3/25/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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