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2290. 自己の不滅性と縁起への関与


——人間には、木の実が実って、自然と地面に落ちるような、その人に固有の豊かな死が存在する——リルケ

夜の八時を迎えた。日曜日が静かに終わりに向かっていくのを確かに感じている。

今日は一日を通じて、ほぼ全ての時間を読書に充てていた。何時間読書に没頭していたのかわからない。

心の眼が見開いて、何か真理を強く希求するような状態に自分がいたのを覚えている。このところ、心の眼が大きく開いているのを強く実感する毎日が続く。

果たして、今日自分は何をしたのだろうか?という問いが自然と浮かぶ。上述の通り、一日を通して読書に没頭していたというのは、今日の自分の行動を確かに言い表している。

読書に並行する形で日記を書き、作曲実践を行っていた。何か成したことがあったとすれば、それぐらいだろうか。

こうした諸々の行為がこの世界とどれだけ密接に関係しているか、あるいは世界への関与はいかほどなのかというのは、最近の私が強く意識している点である。意識しようとしなくても、それは向こうの方から問いとして自分に突きつけられてくる。

この世界への関与と自己の永続性について再び考えている自分がいた。とりわけ、自己の永続性について考えている時、また少し意味の表皮が剥がれた。

結局、自分という一人の人間はいつか身体が朽ち果てる。それに伴って、やはり意識というものも消滅するだろう。

それでは一体、自己の何が永続しうるのかについて考えていた。もしかすると、私がこれまで抱いていた、自らの成した仕事や形として表現したことが永続するというのは幻想、もしくは幾分自己肥大化した物の見方だったのかもしれないと思うに至った。

確かに、例えば学術論文や書籍、あるいは日記や曲として形になったものは、もしかしたら今後長い時間残っていくものなのかもしれない。しかし、それが未来永劫に残る保証など、どこにもない。

この考えに幾分納得しながらも、それでいてどこか納得のいかない自分がいたことは確かだ。そこからまたしばらく考えていると、自らが形として生み出したものは、もしかすると長大な時間の流れの中でいつか風化してしまう可能性があることは認めることができた。

一方で、自己の何らかが永続するという考えを放棄することができなかった私は、そこでまた新たなことに気づいた。結局、自己が消滅し、仮に自己が形として表現したことが消滅したとしても、自己が生きた過程及び自己が何かを形として表現した過程において生じた縁起は消滅しないのではないか、という考えが現れたのである。

すなわち、自己がこの世界で生きたことを通じて生まれた縁起の連鎖は未来永劫消滅しないのではないだろうか。自己が関与した縁起それ自身と自己の関与によって新たな方向性と力を持った縁起は、自己が消滅したとしても未来永劫にわたって続いていく。

人間として生きることの大切な意味の一つは、未来永劫にわたって続いていく縁起への関与にあるのではないだろうか。自己の魂が不滅だとするならば、自己の魂とは一個人の所有物ではなく、この世界の縁起そのものに他ならないのかもしれない。

なぜなら、縁起そのものは、一人の人間がこの世を去ったとしても絶えず存在し続けるからだ。生きることに関する意味が新たな展望として開けてくる。生きることの実感がまた強まっていく。生きることの歓喜がまた自分の内側から湧いてくる。生きることの充実感と幸福感が満ち溢れてくる。

自己が消滅した後に、その自己が関与した縁起が必ず存在し続けるということがわかり、なんとも言えない安堵感が自分を包む。自己の不滅性というのはそういうことだったのだ。

落ちる実がある。実が落ちるための場所がある。落ちた実を拾う人がいる。

私たちの営みはそうして続いていき、私たちの存在はそうして不滅となる。フローニンゲン:2018/3/18(日)20:17   

No.890: In the Affectionate Morning

Although it is cloudy today, I can feel affectionate in the morning.

A crow on the tree on the street looks like feeling the same tenderness from the morning as mine. Groningen, 08:09, Saturday, 3/24/2018

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