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2288. 音楽言語と発達思想の系譜


今週全体を振り返ってみると、やはり充実感に満ちたものであったように思う。興味深いのは、今週の充実感は先週のそれとは少しばかり質が違うことである。

これは毎週感じることである。その差はごくわずかであり、かろうじて認識できるかどうかの微細な差なのだが、毎週感じる充実感は質的に異なっている。

それは単に種類が変化しているというよりも、より深まる方向に向かっている。

今日も一日が夕方に向かい始めた。夕方の四時を過ぎた時間は、フローニンゲンにおいて最も気温が上がる時間帯である。

今朝はとても寒かったが、今は部屋の中が西日で暖かくなっている。書斎の窓のカーテンを開けておくと西日がきついため、今はカーテンをそっと閉めている。

カーテン越しに太陽の暖かさを感じながら、この夕方の時間を過ごしている。

朝から相変わらずラフマニノフの音楽を聴き続けている自分がいる。先ほどハタと仕事の手を止め、ラフマニノフの曲に聴き入る瞬間があった。

なんと表現したらいいのかわからないが、ラフマニノフが曲を通じて言わんとしていること、つまり彼が何を表現しようしたのかが直感的にわかるような体験をした。これはとても不思議な体験だった。

このロシア人作曲家が作った曲を日本人の私がわかるというのは、どういうことなのだろうか。ロシア語のわからない自分でも、ラフマニノフが言わんとしたことがわかるというのは実に不思議なことではないだろうか。

異なる自然言語を母国語に持っていながらも、ラフマニノフの音楽に共鳴することができた自分について考えている。この現象の背後には、やはり音楽言語が持つ普遍性という特質があるのかもしれない。

音楽言語には、人間の本性に根ざすものを共鳴させるような力が秘められている。作曲というのはまさに、人間に普遍的に妥当する感情や感覚を表現することを可能にする媒体なのだろう。

こうしたことを思うとき、なぜ私ができるだけ日本語で日記を書きながらも、同時に作曲行為を通じて自分の内的体験を表現しようとしているのかがわかったような気がする。学術研究に従事している限りは、私は英語で論文を含めた文章を執筆し続けるだろう。

だが、最後に残るのは日本語を通じた日記と、音楽言語を通じた作曲なのではないか、という考えが突如芽生えた。その日がいつやってくるのかはわからないが、日記と作曲が残り、日記的作曲と作曲的日記だけが私にできる唯一のことになる日が訪れるかもしれない。

これからまた少し書籍を読み進めていく。先ほど、人間発達に関する専門書を読んでいた時、ベルグソンの思想に関する記述に目が止まった。

どうやらベルグソンは、発達現象に内在する力を見事に見抜いていたようなのだ。ベルグソンは、発達の過程で生じる個性化と複雑性の増加現象を見抜いており、個性化と複雑性の増加には絶えず脆弱性や危機が含まれていることすらも見抜いていた。この洞察は見事だと思う。

改めて、ベルグソンを含め、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド、ピエール・テイヤール・ド・シャルダン、ジェーン・ゲブサー、ジェームズ・マーク・ボールドウィン、クレア・グレイブス、ヨルゲン・ハーバマスの発達思想について、腰を据えて学び直しを行おうと思う。フローニンゲン:2018/3/18(日)16:41   

No.888: Interest in Philosophy of Science

Once I obtain a doctoral degree about human development, I want to delve into the domain of philosophy of science.

In particular, my main focus will be the justification of psychological research and the exploration of new ways of research in the field of developmental science.

My philosophical underpinnings would derive from complexity science——system science and network science. Groningen, 15:29, Friday, 3/23/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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