夕方に降り始めた雨がすっかり止み、今はひっそりとした夜が訪れている。どうしてこうも神聖さをこの夜に感じるのだろうか。
「この夜」というのは、今過ごしている場所で経験している夜全てのことを指す。毎夜毎夜一日を振り返ってみた時に、全く異なることを振り返っていることは驚くべきことではないだろうか。
一日たりとも全く同じ振り返りをする日がないというのはなんということだろうか。同じ振り返りをしたくてもできないのだ。
それは、人間として新たな一日を毎日生きていることの証なのかもしれない。全く同じ日はなく、全く同じ思考や感覚が浮かぶ日もない。そして、全く同じ自分である日もないのだ。
この事実はいつも私を驚かせる。今日も少しばかりこの現実世界からはみ出すような感覚を経験した。
自分の認識の世界の淵に立ち、そこからすっとあちらの世界に入っていくかのような感覚があった。私は行っていたデータ分析の手を思わず止め、そちらの世界からこちらの世界を見ているような感覚に陥った。
「どうもやはり自分はこの世界に仕えているようだ」ということが改めてわかった。自分は使者なのだろう。
この世界から自分が受託した事柄が何なのかが、徐々に見え始めている。日々の一つ一つの行動は、この受託した事柄を全うすることにつながっているのだ。
こちらの世界からあちらの世界に入っていくというのは、依然としてとても不思議な感覚である。あちらの世界からこちらの世界を眺めてみれば、こちらの世界の光景が全く異なって見える。
それは自分に対しても当てはまる。自己の存在というものをあちらの世界から眺めてみれば、こちらの世界で自己を捉えているようには自己を捉えることはできない。
こちらの世界から見える自己というのは、せいぜい自己の本質に付着した付随物程度のものだけだろう。一方で、あちらの世界から見える自己というのは、自己の本質、もしくは裸体としての自己だ。
さらには、自己がこの世界から受託された事柄の輪郭のようなものも知覚することができる。
今日もこれから静かに一日を終えていく。とても黙想的な夜だ。
一日が終わることは、再び新たな自己が誕生することを意味する。今日の自己から明日の自己に至るための小さな差異と自己保存機能こそ、変容を促すものであり、それと同時に、急激な変容を阻止するものなのだと思う。
人はゆっくりとしか進めないのである。欧州で生活をすることによって、時間をかけて進むことの意義、そして自己の内側に時間そのものを堆積させていくことの意義を掴んだように思う。
ゆっくりと進行していく時間の中で、自らの内側にゆっくりと時間を浸透させていくことの大切さ。とにかく一つ一つをゆっくりと積み上げていくように、ゆっくりと刻み込んでいくように、明日からもまた新たな一日を生きたいと思う。フローニンゲン:2018/3/12(月)19:47