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2223. この世界からの促し


必要に迫られて、また繰り返し自分に述べておく必要がある。文章を書く絶対量が圧倒的に足りていない。

自らの人生を著述することに関する自分の怠慢さには目も当てられないぐらいである。これまでのように、「なぜそれだけの分量しか書けないのか?」という問いは投げかけない。

その問いについては以前からすでに何度も向き合ってきたことである。自己に対する自己からの問いについて考えるのではなく、自己に対するこの世界からの問いについて考える必要がある。

そのようなことにハタと気づかされた。結局、自己は自己に応えられず、自己は自己の問いにも答えられない。

自己にできるのは、この世界からの投げかけに応えていくことであり、世界からの促しに沿って生きることなのだろう。毎日毎日、日々の些細な出来事を対象として、自己への小さな省察を積み重ねてきた。

それがある意味では功を奏してか、もはや語る必要のない部分というのが自分の中に見え始め、それらは克服された発達課題だと言えるかもしれない。一方で、自己への省察を積み重ねれば積み重ねるほど、自己と人生の新たな側面が絶えず開示されていくのも事実だ。

今日は何か特別なことがあったわけではないのだが、思考が錯乱的活性状態にあるように思える。早朝に見た満月のせいだろうか。

満月と狂気が結びつけられることがあるが、そうした影響もあるのかもしれない。

欧州での生活が二年目の半ばを迎えたこの時期において、ようやく私は、この人生から問われていることに応じる形で、そしてこの世界からの促しに応じる形で生きることを始めたようだ。

自己を超越し、この世界からの問いに応じていくためには、徹頭徹尾強固な自我の構造を一度構築し、それを乗り越えていくプロセスを辿る必要がある。それは発達理論のテキストを見れば、どの発達論者も述べていることである。

その意味がようやくわかり始めた。自らがたった今、まさにそれを直接経験しているからである。

強靭な自我を構築する上で、文章執筆を通じた絶え間ない省察は不可欠であろうし、その結果として構築された強固な自我を完全に打ち壊し、それを超越するためにも文章執筆を通じた自己省察が不可欠なのだということを改めて認識する。

あとは、この瞬間にも自己に付着し続けている囚われを焼き尽くす仕事が残っている。

今日は夕食前に、不勉強極まりない自分に対して批判の矢を向けていた。矢を向けるだけだから先に進まないのであって、矢を射ることをなぜしないのかと述べたくなる。

日々の学びの質と量を見直し、徹底的なまでに探究を推し進めていく。このままでは、世界からの促しに一切応えることができない。

そのように述べることによって、今の自己を自己の本質から完全に引き剥がしにかかる。そうした衝動がある一方で、ここ最近は学ぶ姿勢と学ぶことの意義に小さな変化を見出している。

今の私は、脅迫的に学びを続けているというよりもむしろ、この世界からの促しに応じて学びを前に進めているのだと思うようになっている。確かに、私が絶えず学び続けている背後には、小さな自我が醸し出す残り香があることは否定できない。

だが、今日改めて、自分が学び続けていることの背後には、探究を通じた社会関与に率先して乗り出そうとする自分がいることに気づいた。それは、研究者としての地位を築くことに以前から関心がないことの最大の理由になっていると気づく。

結局私は、この世界からの促しに応じて絶えず学ぶことを宿命づけられ、そこで得られた知識と経験を徹頭徹尾この社会の具体的な課題の解決に向けて適用することを促されているように思えてくる。それは自分にできる数少ないことの中で最も大切なことだろう。

自分が絶えず絶えず学び続け、絶えず絶えず社会に関与していくのは、この世界からの要求事項であり、同時にそれは促しなのだと思う。自己と世界との境界線が揺らぐ中、もう完全に自己をこの世界に明け渡す形で日々を生きたいと思う。フローニンゲン:2018/3/4(日)20:35 

No.842: Dynamism of Spring

Although it was slightly raining yesterday, a clear sky is manifest today.

I’ve recently felt the dynamism of spring. Groningen, 08:35, Friday, 3/9/2018

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