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2108. 満月の下での小さな誓い


蠱惑的に輝く満月を眺めながら、ふと昨夜浮かび上がってきた思念について考えていた。以前から私は、人は自ら紡ぎ出す言葉で膨大な量の文章を創出した時、その人間の言語認識世界はいかように変容するのか、ということに関心を持っている。

その関心がふとしたきっかけで昨夜も顔をのぞかせた。具体的には、人間が一億文字を自らの言葉で紡ぎ出す時、その人間の認識世界の特性はどのようなものに変化するのだろうか、ということについて強い興味を再度喚起されたのだ。

これは他者を対象にするというよりも、自分を対象に、つまり自らを実験台として行おうと思っている試みであった。しかし、一億文字を生涯にわたって書き残すというのは想像以上に難しい。

以前大学のキャンパスに向かって歩いている時に、仮に一億文字を生涯にわたって創出するのであれば、毎日四千字の文章を執筆したとしても、80年以上の時間がかかることがわかる。書籍に換算すると、月に単行本一冊を執筆するペースで80年間毎日文章を書き続けることが要求される。

そうした計算をしてみると、その結果に対して驚くというよりも、自らを誘惑するような何かがその試みの中にあることに気づく。自らの人生を綴り、日々の出来事から喚起される思考や感覚、そして日々に見出された新たな意味をつぶさに書き留めていくことへの関心は増す一方である。

早朝の六時を迎えた頃、郵便配達員の人が道路を自転車で走っている姿を見かけた。その人以外は道路に人はいない。

このような寒い中でも、誰にも見られないところで自らの仕事に従事している人の存在に気づく。今地球の反対側や大きな時差のある日本では、無数の人たちが自分の見えないところで仕事に従事しているのだろう。

一億文字を書き残すという試みの裏には、当然ながら自分の言葉で生み出された巨大な言語構築物がいかようなものになるかを眺めてみたいという気持ちがあることは確かだろう。さらには、日々の学びが風化しないように、そして自分の人生が風化しないように、絶えず文章を書き続けることには大きな意味があるように思う。

一方で、この試みの最奥にある自らの欲求についても光を当てる必要があるかもしれない。昨日読み進めていたオットー・ランクの書籍の中に、人間には、有限なものを無限に変換させようとする衝動が内在しているとの記述を見かけた。

とりわけ、何らかの創造行為に従事している人は、多かれ少なかれこうした衝動をもとに表現行為を継続させているという記述と出会った。私はハタと、以前から自分の中に渦巻いている永遠性を希求する思いとこの衝動を照らし合わせた。

そして、こうした思いの背後には、有限な生を不死のものにするという試みに盲目的に従事している自分がいたことに気づかされたのである。「盲目的な不死化」現象は、もしかすると私のみならず、多くの人の中で見られるものかもしれない。

下手をすると、日々の全ての行為というのは、有限な生と死からの逃避であり、盲目的に生を無限なものにしようとする行為だと言えるのではないか、という考えが脳裏をよぎる。

ひょっとすると私が一億文字を書き残すことの中に蠱惑的なものを感じているというのは、巨大な言語構築物を生み出す過程の中で、なんとか盲目的な不死化から脱却し、意識的な不死化の道、つまり膨大な文字で作られた巨大な言語構築物を意識的に永遠のものにしようとする意思が芽生えているからかもしれない。

満月の見える早朝、小さな誓いとして、巨大な言語構築物の創出に向けた一歩を絶えず踏み出し続けて行こうと思う。フローニンゲン:2018/3/2(金)06:26   

No.827: Journaling

I noticed that I did not keep an English journal very much yesterday, probably because I kept a relatively large amount of Japanese diaries.

Writing is an indispensable practice in my daily life to reflect upon myself and my life.

It always provides new findings and different questions with me.

Both of them enrich the quality of my life. Groningen, 07:37, Monday, 3/5/2018

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