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2094. 仕事についての再考


今朝は五時半過ぎに起床し、六時前に一日の活動を開始した。七日目のインターンを昨日に終え、今日は午後からミヒャエル・ツショル教授の指導のもとに進めている研究に関するミーティングがある。

その前に、午前中には日本企業との協働プロジェクトの案件に関する仕事が二つある。学術研究に従事することと社会的な課題へ関与することの二つが絶えず循環している。

昨夜もまた、自分が大学の教授になる意思はほとんどないことに気づいた。大学教授という地位に就くことによって、研究と実務以外のことに追われるのであれば、そのような地位に就く必要は全くないと思う自分がいる。

身近にいる教授たちを見ていると、彼らが随分と他のことに追われていることに気づく。私は組織の中で彼らが担っているようなことを行う能力もなければ意思もない。

今後も大学機関に所属していながらも、教授職にはできるだけ就かないように生きていく工夫が必要だろう。これからの十数年間にかけて、本当にゆっくりとかつ継続的に探究を進めていき、その期間に二つか三つの博士号を取りたいという思いが強くなる。

今のところ考えているのは、人間発達に関する博士号、ネットワーク科学に関する博士号、システム科学に関する博士号が候補である。それぞれを数年間かけて深く学ぶことに従事したい。

その過程の中で、これまでの七年間のように、あるいはさらに力を注ぐ形で、獲得された知見を社会の課題へ絶えず活用していきたいと思う。

昨夜は就寝前に、科学論文執筆への疑いに対して新たな考えが生まれた。どうやら私は、科学論文そのものを執筆する意義については理解し、他の研究者からのフィードバックによって知を協働創造していくことの意義は十分に感じているようだった。

しかし、学術機関に所属した場合、論文を内発的な動機ではなく、外発的な動機で書かせるように仕向けてくる見えない圧力のようなものがあることが気掛かりである。また、論文ジャーナルのレビューアーの仕事の遅さにも強く疑問を持つ。

当然彼らの中にも自らの意思でレビューアーを引き受けている者もいるだろうが、そうでない者もいるだろう。そうした意欲のないレビューアーに自分の論文を渡し、彼らからの杜撰なフィードバックを元に論文を何度も書き直すことに自分の時間を使いたくはないという思いがある。

数年前までは、学者が一般書を執筆することに疑いの目を持っていたが、今はそうしたことはない。むしろ、狭い学術コミュニティーの中で内輪の議論をするよりも、研究によって得られた知見を広く世の中に共有することの方が意義があるのではないかと最近思い始めている。

それに相まって、学術論文の執筆に対する疑いは相変わらず晴れない。現時点での考えは、博士課程での研究を元に一般書を執筆していくことと、そこでの探究で得られた知見を常に社会の具体的な課題の解決へ向けて適用していくという実務的実践に従事していくことが、自分の仕事の最適なあり方なのではないかと思う。フローニンゲン:2018/2/27(火)06:25 

No.813: Big Data Hubris

While reading a book about network science, I noticed again the usefulness of not only system interventions but also network interventions for individual and organizational development.

Also, my motivation to study MOOCs from network science perspectives arose again.

In the book, I found an insightful concept called “big data hubris” by David Lazer.

“Big data” has been a recent buzz word, but we are inclined to overemphasize the power to utilize big data.

In other words, we are blind to the dark side. Groningen, 20:03, Tuesday, 2/27/2018

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