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2077. 表現の困難性と論文執筆についての再考


昨日、表現の困難性について考えていた。それは学術論文の執筆しかり、作曲しかりだ。

自分は何を表現したいのか、何を伝えようとしているのかを見出すこともさることながら、それらが仮に見つかったとしても、それらをどのように表現するかもまた難しい。

昨日、友人のハーメンとカフェで会話をしているとき、ハーメンは博士課程の進学をあまり検討していないようだった。フローニンゲン大学の博士課程に進学する場合、それは大学から研究者として雇われることに他ならず、給料をもらいながら論文を執筆することが何よりも重要な仕事とされる。

ハーメンが指摘するように、一本の論文を査読付きジャーナルに載せるまでには多大な時間と労力を要する。論文を執筆するだけであるならば、文章を書くことが苦ではない研究者の場合、一本の論文を書き上げることにはさほど時間はかからないだろう。

ただし、査読付きジャーナルで掲載してもらうためには、レビューアーによる査読があり、彼らからのフィードバックを元に論文を再度加筆修正し、場合によってはその往復が何度か続く場合もあり、さらには修正をした論文が必ずしもジャーナルに掲載されない場合もある。

そのようなことを考えると、科学論文をジャーナルに掲載するためには多大な労力を要することがわかる。また、苦労をして書き上げた論文がひとたびジャーナルに掲載されたとしても、現在の論文ジャーナルのほとんどは一般の実務家には無料でアクセスできないようになっており、結局読み手はごく少数の研究者だけとなることがほとんどである。

例えば、教育研究の論文を書き上げ、本来は教育の実務家に向けて書いたはずのインプリケーションが、目的の教育実践者に一切読まれることはないというのはとても残念なことである。私が今でも依然として抱いている科学論文に対する疑いの一つはこの点にある。

もちろん、自分の論文が当該科学領域の進展に何かしらの貢献を果たすことができるのであれば、それはまさに科学者冥利に尽きることだと思う。しかしながら、やはりごくわずかの研究者だけに論文が読まれ、そこで知が独占され、内輪の中で対話を行うこと——往々にして対話すらも起こらない——に大きな意義を感じないというのが正直なところだ。

一方で、ハーメンと別れた後、自宅に戻る道中で考えていたのは、科学研究の専門家によるレビューとフィードバックを受けながら論文を書き続けることの意義だった。やはり科学研究を専門とする者たちによるフィードバックを得なければ磨かれようのない知性や能力があるのは確かである。

そこで培われるのは非常に特殊な知性や能力であるとつくづく思う。どこまで科学コミュニティーに参画し、科学研究の専門家からどれだけフィードバックを受けるかの塩梅について、今後さらに真剣に考えていく必要があるだろう。

査読付きジャーナルに掲載されるために執筆する論文にも意義があることは確かであるが、そうしたことに一生涯従事するよりも、仮に他の専門家のフィードバックがなかったとしても、書きたいことをただひたすらに書き続けることの方が価値があるように思えることがある。

現代社会において、自らの内発的な衝動に基づいて、書きたいことだけを書き続けている研究者などほとんどいないのだから。フローニンゲン:2018/2/22(木)20:39  

No.796: Movement

I can see a gentle rainbow-like sky in the early morning in Groningen.

It seems that I can move forward from the bowls of the earth to the ground and the celestial sphere, and that I can also move in the opposite direction. Groningen, 07:42, Saturday, 2/24/2018

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