今日は午前中から昼食前にかけてアーネスト・ベッカーの書籍を読んでいた。300ページほどの分量であるが、中身が濃いためか普段よりも一読に時間を要したように思う。
本書を読み終えて、再度全体を眺めてみると、随分と下線を引いた箇所や書き込みをした箇所があることに気づく。それらは一旦断片的な気づきや知識として自分の内側で泳ぐことになるだろう。
良書は、認知的な刺激を与えてくれるのみならず、実存的な刺激も与えてくれるのだということを再確認した。ベッカーの優れた論考には随分と刺激を受け、個人と組織の内面現象を考察していく上で、本書を今後も参照することになるだろう。
とにかく今は、本書によって得られた断片的な気づきと知識を一旦寝かせるようにしたい。
気づけば日曜日も夕方を迎え、今この瞬間にはフローニンゲンの夕日が美しく耀いている。夕方の五時を過ぎたが、数週間前であればこの時間帯は闇に包まれていたはずだ。
来月末のサマータイムの開始に向けて、着実に日が伸びていることがわかる。一昨日、インターン先のオフィスから自宅に戻っている最中、冬空の下にいると実に様々なことを思い、様々なことを感じるものだと思った。
そして、私たちはいついかなる時も、この広大な空の下にいることを忘れてはならないと思った。いや、私たちはいついかなる時も自らを超越した何かの下にいるのである。
日々の一つ一つの営みは、そこに向かう礎であり、一つ一つの営みは全てその抱擁の中にある。夕暮れ時の太陽が今日最後の輝きを強く発している。
欧州での二年目の生活も残すところ後半年ほどになり、これまでの自分と今の自分について少しばかり考えを巡らせていた。果たして自分は何かを学んできたのだろうか、果たして自分は何か変化を経験したのだろうか。
そのようなことを考えていた。これまでの日記の中で、欧州で学んできたことや経験した変化についてつぶさに書き留めてきたつもりである。
しかし、果たしてそれらが本当に自分が学んできたことや変化してきたことなのかは定かではない。もっと重要な学びや変化があったように思えてきたのである。
学びや変化について記述をした瞬間に、私はその学びや変化の外に出る。重要なことは、学びや変化が生起する場所の中に生き続けているということであり、学びや変化を絶えず経験する主体への気づきの意識が芽生えたことにあるのではないかとふと思った。
つまり、欧州での生活を通じて得られた学びや変化が重要なのではなく、学びや変化が生起する場所の中に絶えず自己を据え続け、学びや変化を経験する自己そのものへ気づきの意識を与え続けることができるようになったことが重要なのではないか、ということである。
ゲーテはかつて、経験の中に浸り切り、経験の最奥から内省を行うことの重要性を説いた。私が欧州での日々を通じて得たものは、そうしたことに近いかもしれない。
一つの経験を究極的なまでに主観的かつ客観的に捉えること。そのプロセスが自己の内側で確かに起こり始めている。
そしてそれは、欧州での生活が一日一日と経つにつれて着実に進んで行く。フローニンゲン:2018/2/18(日)17:20
No.776: A Drop in The Mighty Ocean
I’ll leave my house soon to go to the internship office.
I feel that today is like a precious drop in the vast ocean. Groningen, 08:42, Monday, 2/19/2018