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2046. 半記号・半動物


今日も一日が静かに終わりに近づいている。早朝にある考えが浮かび、それについてまた少しばかり思い出している。

とても不謹慎かつ単刀直入な言い方かもしれないが、科学論文ばかり読んでいては知力が脆弱になる感がある。もちろん、科学論文を読み進めることによって、ある一定程度まで知力は高まるかもしれないが、それは必ずあるところで止まる。

科学論文を読めば読むほどに、知識の絶対量は増えるが、思考が重たくなる感じがするのはなぜだろうか。こうした思考の鈍重さは、知力の弱体化を予期しているように思える。

こうしたことをもたらす背景には、そもそも科学論文の構築のされ方の限界があるだろうし、科学論文の多くはどこか哲学的に対象について考える余地がほとんど残されていないように思えてくる。

むしろ多くの論文ジャーナルは、そうした哲学的探究の余地を許さないような論文しか採択していないようにすら思えてくる。以前、科学論文の採用プロセスの問題点を指摘するような記述をどこかで見かけた。

依然として私が科学論文に対して疑義を抱いているのは、論文ジャーナルの政治的な問題や現在の科学論文の限界をよく目にするからだろう。

今日は夕方に大学で所用があり、自宅に戻ってきてからは、アーネスト・ベッカーの“The denial of death (1973)”を最初から読み始めた。先日、序文だけに目を通し、今日は本格的に第一章から読み進めた。

本書を読み始めてみると、今の私の関心事項に合致しているためか、引き込まれるように第四章まで読み終えた。本書を読みながら、改めて私たち人間は、抽象的なシンボルをいくら扱えるようになっても、いつまでたっても結局動物であるということを忘れてはならないと思った。

人間の発達を決して過信してはならない。どれだけ発達しようが、私たちは結局動物の域を出ることはないのだ。

この点はまさにエリック・フロムが過去に指摘していたことであり、私たちは半分シンボルで、半分動物であるという事実を忘れてはならないだろう。私たちは抽象的なシンボルを操作する能力を獲得したことによって、シンボルが持つ永遠性と、自らの存在が動物であるという有限性との間で葛藤を覚えるようになる。

私たちの内側に永遠性と有限性の二つが同居していることが諸々の苦しみを生み、実存的なジレンマを生じさせることにつながっているのかもしれない。フローニンゲン:2018/2/15(木)10:52  

No.765: Our Fate

I heard some negative news about virtual currencies.

Each news implies the distorted balance between the development in each quadrant (individual and collective interior and exterior quadrants).

Needless to say, virtual currencies are the product of highly advanced technologies.

Yet, individual maturity toward virtual currencies don’t follow the technological development.

Also, legal systems are poorly established until now.

We must know that our development has always fallen back to technological development forever. Groningen, 13:00, Saturday, 2/17/2018

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