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2038. 情報咀嚼の必要性


夕暮れ時を迎え、一日の終わりが近づいていることを実感する。今日は本当に天気に恵まれており、爽快な冬の青空が一日中広がっていた。

昼食後、近くのスーパーに買い物に行った時、空の青さには思わず息を飲んだ。道中、運河の水が凍っており、アイススケートができるのではないかと思われるほどであった。

そういえば、今どこかの国で冬季五輪が開催されているということを人づてに聞いた。

今、書斎の窓の向こうに様々なグラデーションを持った夕方の空が広がっている。音楽には多様な調というものが存在しており、それは作曲家にとっては音のパレットである。

私はまだそれぞれの調が持つ固有の色と質感を正しく理解していない。これから少しずつそれらの色と質感を掴めるようになることを望む。

それが可能になれば、今目の前に見える夕暮れ時の空を表現することも、それによって喚起される私自身の感情すらも巧く表現することができるだろう。

昼食を摂り終え、メールを確認すると、研究アドバイザーのミヒャエル・ツショル教授から、国際学習科学学会に提出した論文の審査が通った旨の連絡に対する返信があった。ツショル教授は今回の論文の共著者であり、多大な支援をしてくれていたため、ツショル教授も今回の結果を喜んでくださっていた。

ツショル教授からの依頼もあり、レビュアーのコメントを送り、それに対してツショル教授の考えが即座に送られてきた。本当に研究熱心かつ親身にサポートをしてくれる教授である。

明日にはツショル教授が受け持つ「デジタルラーニングと学習環境」のコースの第二回目のクラスがある。第二回目のクラスの課題論文はすでに読み終えており、明日の朝にもう一度読み返す。

今日は第五回のクラスで取り上げる三本の論文を読み進めていた。確かにそれらの論文から得るものは少なからずあったのだが、自分の内側を喚起するような大きなものはそれほどなかった。

むしろ論文を読んだことによって、何か情報の塊が重く自分の身体にまとわりつくような感覚があった。情報というのは咀嚼することを前提にしていないと、本当に心身に害悪なのではないかと思わされる。

食べ物を咀嚼するのと同様に、情報の咀嚼には一層の注意が必要である。私たちの日常には無数の情報が溢れており、現代社会の仕組みとしてそうした情報は私たちの内側に否が応でも流入してくる。

哲学者の森有正氏はかつて少々手厳しい表現として、「どんな阿呆の内側にも体験は日々蓄積されていく」という言葉を残している。まさに私たちは、社会から流れ込んでくる情報に合わせて、無数の体験情報が流れ込んでくる状況に置かれていることを再認識する必要があるだろう。

そうした状況にあって、やはり私たちは、少なくとも一日の食事の回数と同じだけ、あるいはそれ以上に、情報の咀嚼に時間を充てるべきなのではないだろうか。情報とじっくりと向き合い、それを咀嚼する最良の手段はおそらく文章を執筆することだろう。

一日の食事の回数と同じほど文章を執筆することに時間を充ててもいいのではないだろうか。いやむしろ、情報が肥大化するこのような社会に生きているからこそ、情報の咀嚼にはそれくらいのことをするべきだと思う。フローニンゲン:2018/2/13(火)19:37   

No.757: Music of Piercing Wind with Low Sound

It snowed in the early morning, and there is a rain cloud in the sky now.

The outer world seems to play music of piercing wind with low sound. Groningen, 08:37, Thursday, 2/15/2018

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