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2101. 科学と哲学の両極


今日も昨日に引き続き、早朝から晴れ間が見える。柔らかな冬の青空を見ることが、これほどまでに自分の心を落ち着けるのだということを改めて思う。

遠くの空はほのかな紫色を発している。早朝の青空を眺めると、一羽の鳥が優雅に舞っていた。

飛ぶ鳥のさらに奥を眺めると、空の中にぽつりと半月が浮かんでいる姿が見えた。早朝の半月は静かにそこにたたずんでおり、太陽とは違ったものをこの地球に届けている。

半月の波動のようなものを感じたことはあるだろうか。半月を凝視していると、欠けている場所を補うかのように、それが満月であるかのような錯覚を覚えた。

そして、その半月はモナリザの絵画作品のように思えてきた。昨年の夏にルーブル美術館で見たモナリザの微笑みが発するあの何とも言えない波動。

それと同じような波動が、半月からこちらに向かって届けられている。

いつもと同じように学術研究の仕事を始めようとした時、自分にとって科学論文ばかり読むことはあまり好ましくないと思われた。端的に述べれば、科学論文という一つの物語で用いられる素材とストーリーの構築方法に退屈さを感じることがある。

それは特に科学論文だけを読み続けている時に起こる事柄である。こうしたことと関係して、私はできるだけ科学の領域だけに留まることのないように日々を送っているのかもしれない。

それは日本企業との協働プロジェクトであったり、作曲であったりと、様々な形を取る。学術研究においても、科学領域だけではなく、哲学領域の探究も進めていこうとする意思の背後には、一つの領域だけに留まっておくことを自らに許さない何かがあるのだろう。

これまでの学術研究を振り返ると、確かに科学と哲学の領域を行ったり来たりしている自分がいることに気づく。現在所属しているフローニンゲン大学は、人間の発達現象をもっぱら科学的な観点で探究していくことを前面に出している。

そうした環境で研究を進めることによって得られたことは計り知れず、特に科学的な発想の枠組みと手法を用いて人間発達に迫ることができるようになりつつあるのも、この大学に所属しているからこそだろう。

一方で、人間発達を哲学的な観点から研究していくことに関しては、自ら行っていく必要がある。フローニンゲン大学の哲学科は、欧州の大学の中でも質の高い研究を行っているそうだが、私は哲学科に所属しているわけではないし、人間発達という観点を哲学的に探究している教授はここにはそれほどいないという印象を持っている。

そうしたことから、哲学的に人間発達を探究していくことは自らが率先して行っていく必要がある。仮に秋から米国の大学院に籍を移すことになれば、そこでは科学・哲学の両側面から人間発達を探究できるであろうという期待がある。

秋からは、科学と哲学という両極をこれまで以上に激しく行き来し、それらが一つの大きな極に収斂していくのではないかと思っている。フローニンゲン:2018/2/6(火)08:41

No.730: Lustrous Days

I’ve recently perceived my days to be luminous.

Our days are very irradiant. Groningen, 07:52, Friday, 2/9/2018

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