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2066. 他者の謎の上を他者の足で歩こうとする人間


いつも大抵、日本語でこのようにメモ書きとして日記を残す分量は、だいたい4,000字から5,000字の間に落ち着く。主題が先にあることが当然多いが、仮にそうだとしてもそれをどのように文章の形にしようかなどは一切考えていない。

そう考えると、主題をある一定形式に基づいて形にしようとしないこれらの文章は悪文と言えるかもしれない。事実、悪文であり駄文である可能性が高い。

だが、私たちは往々にして形式的に文章を書こうとするあまり、それを言い訳に結局何一つとして文章を書かない、あるいは文章を書けない、ということが起こりうるのではないか、ということを今朝方ふと思っていた。

形式に則って表現行為をしていくことは価値のあることであり、また大切なことである。しかし、多くの人は形式というものに飲み込まれ過ぎてはいないだろうか。

形式の中に入ろうとするから何一つとして形を生み出せないのであって、形式という無数の道の上を歩くことによって身体を自然に前に進め、その過程で形を生み出していくというような意識が必要なのではないだろうか。 昨日もバルトークの生涯について調べている時に思ったが、結局、形式に飲み込まれることなく、形式という道の上を歩きながら、膨大な量の表現行為に従事し続けることによって初めて、新たな形式という自分の表現行為上の道を見出すのではないかと思った。

そのように考えてみると、自己を表現するということに関しては、自分の道を発見することができない人間が多いのみならず、自分の道を歩もうとする人間もまた極めて少ないのではないかと思わされる。 この点と関係しているのか定かではないが、一昨日の曲に対して付けた解説文の内容を思い出した。そこには、「ふと気づくと、謎めく行進をするかのように人生を歩いていた、というようなことはないでしょうか?」という言葉が記されている。

その文章に続けて、「人生は謎に包まれており、一つ一つの謎を紐解きながら謎めいた形で日々を生きることが、この人生を生きることなのかもしれません」という言葉があった。

まさに早朝に書き留めていたように、自分の内側の現象を形にする行為は謎に満ち溢れたものであり、そうした一つ一つの謎を次の表現行為によって紐解こうとし、そこでまた新たな謎と遭遇する。

内面現象、そしてそれを表現することに関して、私たちは本当に謎に満ち溢れた形で日々を生きていることがわかる。おそらくここで重要なのは、自らの謎の上を自らの足で歩くことなのではないだろうか。

他者の謎の上を他者の足で歩こうとする人間があまりにも多いと思うのは私だけだろうか。果たしてそれは自らの人生を生きていると言えるだろうか。

人は創造を宿命づけられた生き物である、と最近よく思う。だが、自らの謎と向き合い、自らの新たな謎を創造しようとしない多くの現代人を見ると、その考えは改められなければならないかもしれない。フローニンゲン:2018/1/28(日)06:39

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