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2057. 環境適応と環境包摂


今日は早朝から辺り一面が霧に包まれていた。その霧の深さはなかなかのものであり、まるで雪が吹雪いているかのように視界が一面真っ白の世界であった。

実際に、道行く車もヘッドライトを灯しながら慎重に進んでいた。そうした外の世界を眺めながら、今日も午前中にある日本企業との協働プロジェクトに取り組んでいた。

昼食前に仕事がひと段落し、そこから日本へ契約書類を送るために近くの郵便局に立ち寄った。郵便局に行くことを兼ねて、ランニングをしようと思い、いつもとは異なるコースを走りながら郵便局に向かった。

無事に契約書類を日本へ送った後、行きつけのインドネシア料理店に向けて再び走り出した。走っている時には今朝からの霧は随分と晴れていたが、太陽の姿を拝むことはできなかった。

先週あたりには二日連続で太陽の光を浴びることのできる日があったが、それは束の間の出来事であり、再び晴れ間の全くない日々に逆戻りしている。しかし、ここで今朝私は不思議なことに気づいた。

初めてオランダで生活を始めた昨年は、こうした外部環境の影響から精神的な過酷さを経験していたが、二年目の生活においてはそのような経験をすることはほとんどないということである。

この点については以前の日記で触れていたかもしれない。これを単純に「環境適応」と述べることは可能であるが、私はもう少し深い意味があるように思えて仕方ない。

私は単にオランダの土地に適応したのみならず、その時から日々の生活の中に確かな充実感を汲み取ることができ始めているという、単なる環境適応を超えた現象を見出すことができる。晴れの日が全くないこのような時期になって、なぜ私の心はこれほどまでに晴れやかなのだろうか、と自問する。

環境が自己を包摂するのではなく、自己が環境を超越し、環境を包摂するようになっている、と言えばわかりやすいだろうか。おそらく、環境適応という形で環境の中に自己が定位されているのではなく、環境超越による環境包摂が起こることによって、自己の中に環境が定位されているという内的状態を見つけることができる。

おそらくこれをもってして、私はもはやいかに気温が低かろうが、太陽を見る日が滅多になかろうが関係なしに、生きていることの確かな実感と内から滲み出す充実感を持って日々の生活を送ることができているのだろう。

昼食中にもう一つ新たな気づきを得た。それは、今述べたように「充実感」であったり、「幸福感」という言葉を私が用いるようになったのは、欧州での生活を始めてからしばらく経ってからのことであった。

私は新たな土地で生活を営むことを続けていく中で、徐々に自らの人生における充実感と幸福感を見い出していったのだと思う。ここに明確な因果関係を規定することは難しいが、やはりこうした新たな環境で再度自らの精神生活を構築し直すという試みがあったがゆえに、私は徐々に自分の人生における充実感や幸福感とは一体何なのかを見い出していったのだと思う。

そして、ひとたび「充実感」や「幸福感」という言葉を用いて意味を生成し始めると、それらの言葉の持つ意味もまた今後変容を見せるに違いない。それらの言葉の持つ新たな意味は、おそらく次の生活拠点で見出されることになるだろう。フローニンゲン:2018/1/26(金)13:42 No.692: Pathos Into Time

Have you ever experienced the sense of pathos dissolving into time?

Whenever I have such a feeling in my daily life, I suppose that the pathos melts into an enormous flow of time. Groningen, 10:05, Saturday, 1/27/2018

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