「あぁ、これまでの日々はこの瞬間のためにあったのだ」という確かな感覚に先ほど襲われた。
これまでの日々に取り組んできたことが、ある時今この瞬間のためにあったのだと覚知される瞬間に立ち会ったことはないだろうか。私は人生の節目節目でそのような瞬間に立ち会う。
この現象は不思議なもので、これまでの日々がある瞬間とつながるのと同時に、その瞬間はまた次の瞬間につながっていく運動を即座に始める。そしてまた新たな大きな瞬間に向かって自己を前に進めていく。
米国での生活を通じて、それらの瞬間に何度も立ち会ってきたことが、今私をオランダに運んできたに違いない。またそもそも私を米国に運んだのも、日本で立ち会ったそうした瞬間によるものだろう。
これから私はまた研究領域を大きく変え、引き続きオンライン学習についての研究をしながらも、芸術と人間発達の研究に取り組んでいく。とりわけ、作曲技術の発達過程と美的経験が深まるプロセスを科学的に研究していくことに取り組む。
米国での大学院で発達心理学を学び、フローニンゲン大学で複雑性科学の研究手法や実証的教育科学の研究手法を学んできたことは、その新たな研究のためだったのではないか、という思いに駆られる。
再度米国で芸術と人間発達の研究をするために、私は今オランダにいるのだという確信めいたものが降ってきたのである。日本を離れ、米国に渡ったのもそのためであったし、米国を離れてオランダに渡ったのもそのためだったのだ。
全ては次の新たな瞬間に伸びていたのである。この体験は、普段は気づかない瞬間の粒子が拡大し、拡張された瞬間の粒子と自己が接触する感覚だと言い換えることができるかもしれない。
私の中でこうした体験はもはや劇的なものではないが、それでも畏怖と神妙さを伴う静かな気持ちにさせてくれるのは確かだ。本当の気づきとは静かなのではないだろうか。
劇的な気づきの奥にはまだ深層的な気づきが眠っているのである。オランダで生活をし始めて一年半が経とうとしているが、今ようやく自分がここにいる深層的な意味に気づけたように思う。
それは次の瞬間に向かっていくために不可欠のものであり、今私がここにいることは必然だったのだ。この瞬間にそこにいることは、次の瞬間に向かうために不可欠であり、なおかつ必然なのだ。フローニンゲン:2018/1/24(水)08:02
No.682: Reification of My Concern toward This Modern World
I want to express my concern about social problems in this modern world as music.
My present composition skill is quite low, which inhibits me from accomplishing my purpose.
Once I can acquire a certain level of skills, I’ll start to reify my thoughts on social issues as music.
I already have some themes that I want to address. Groningen, 15:42, Tuesday, 1/23/2018