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2044. 半閉半開なる人生


さわさわと雨が流れるように降っている。窓ガラスにぽたりぽたりと落ちるような雨ではなく、そっとした風に運ばれてくるかのような雨が今降っている。

今日は午前中に二時間強のオンラインミーティングをある日本企業の協働者の方々と行った。成人発達理論に基づく人材育成プログラムの開発も順調に進んでおり、本プログラムは当初の予定通り今年の春には世に送り出せそうである。

世の中に形として残るものを協働で創造することは、非常に大きな意義を私に感じさせる。人材育成のプログラムにせよ、協働執筆の書籍にせよ、他の方と協働して何かを創っていくということは本当に今後とも継続させていきたい。

創ることが自分の人生であり、創ることでしかこの世界の中で生きられないことをもはや自分は知っている。だから創り続けることが大事なのだ。 日々の生活が小川のせせらぎのように営まれているように感じる。この感覚は欧州での生活が一日と長くなるごとに強まっていく。

日々の活動の一つ一つが、そして時間そのものが小川のせせらぎのようにどこか一つの場所に向かって流れているかのようなのだ。その一つの場所はわかっているようでいてわからない場所である。

誰しもが向かうべき場所なのだが、その場所は人それぞれ違う景色を開示するであろう場所だ。

今日も気がつけば夕方の四時を過ぎている。ここまでの時間の流れも早かったが、ここからの時間の流れも速いだろう。

昼食時に、自己の生涯を閉じた後の世界について考えていた。生涯を閉じた後、それでも他者の世界が存在し続けるであろうということに対して、妙に不思議な感じがした。

それは当たり前と言えば当たり前なのだが、自己の生涯を閉じた後にもまだ動き続けている世界があり続けるということに神妙な気持ちになったのである。すると、自己の生涯を閉じるというのは、もしかすると完全に閉じることはなく、半閉半開の状態なのではないか、という考えが浮かんできた。

おそらく要点は、一人の個人の人生は半分開いたままの状態で終わるということだろう。一人の人間の生涯は肉体の消滅と共に外形上は生涯を閉じると表現されるが、それは実は半分開いたままの状態のような気がしてならない。

その人が残した言葉を含めた種々の創造物、その人にまつわる記憶を持つ人たちがいる限り、その人の生涯は完全に閉じえないのではないだろうか。人生は閉じるのだが閉じないということ、霊魂の不滅性というのはその辺りのことと関係しているだろう。

「2018年1月23日に私は生きていた」ということを書かなければ気の済まない感覚に襲われる。「そして、2018年1月23日のフローニンゲンは雨であった」と書かなければ気の済まない自分がいるのである。

一人の人間がある一日を生きているということが、これほどまでに奇跡的なことだということに打たれる。一人の人間の人生は必ず閉じ、そして必ず閉じないということに強く打たれる。

生きるということが何なのか、一人の人間の人生とは何なのかという問いは依然として多くの謎を残すが、そうした謎に打たれながら生きることしか自分にはできないようだ。

一羽の鳥が遠方の大空を雨に打たれながら飛んでいく。フローニンゲン:2018/1/23(火)16:24 No.679: Caveat of the New Practice

I have to keep in mind the limitation of the new practice that I invented.

The limitation lies in the first step. If I decompose a melody into a bone of rhythmic structure, I may have a problem of parts and whole.

I presume that past great composers did not create only rhythms at the beginning of composition but generated a melody that inseparably encapsulates rhythms.

Keeping it in mind, I’ll continue the new practice. Groningen, 19:49, Monday, 1/22/2018

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