天気予報を確認すると、今日から週末までは一日を通じて断続的に雨が降るような日々が続きそうだ。今朝も起床時に雨がパラパラと降る音が聞こえていた。
今少しばかり空気の入れ替えのために書斎の窓を開けているのだが、通りを走る車の音を聞いていると雨に濡れた道の上を進む独特の音が聞こえる。その音を聞きながら、ハッとするように今朝方見ていた夢の断片を思い出した。
それは今朝の夢だけではなく、私の夢の中にたびたび現れる一つの象徴的な事柄である。現実世界とは対照的に、私は夢の中で車を運転することがあるのだが、その際にブレーキの利かせ方がうまくわかっていないようなのだ。
思い出してみると、ある夢の中では一切ブレーキを踏むことなく走り続けていることさえある。足元にブレーキがあるはずなのに、その場所がいまいち飲み込めていないのと、踏む方をよく掴んでいないようなのだ。
今朝方の夢の中でもそれと同じようなことが起こっていた。狭い路地の道を最初はゆっくりと進んでいたのだが、徐々に速度が上がり、それでもブレーキを踏むことはほとんどなかった。
もちろん最初は、見通しの悪いところでは速度を落とし、一時停止を要求する箇所では止まろうとしていたのだが、ブレーキがどうもうまく利かないのである。本来止まるべきところでも車が完全に止まることはなく、どうしても緩やかに前に動いてしまう。
そうした現象に対して私はある種の諦めの感情を持つようになり、そこからはブレーキを踏むことなく、場所のわからぬ目的地に向かって進んでいた。
通りを走る車が水しぶきを上げながら進む音を聞きながら、そのようなことをふと思い出した。 今日もこなすべき仕事をしながらも、作曲実践に多くの時間を充てたいと思う。ただし今日からは、再び音楽理論と作曲理論を学ぶことにも時間を充てたい。
実践の重要性を強調するあまり、ここ最近は理論の学習がおろそかになっていた。実際に曲を作る際や他の作曲家の作品に範を求める際にも、観点が必要であり、そうした観点を提供してくれるのが理論だと思う。
一日に30分でもいいので、音楽理論か作曲理論の解説書に目を通したいと思う。これもまた新たな習慣としたい。 この二日間を通じて、モーツァルトの作品に範を求めるのは今の私にはあまり賢明ではない、ということがわかった。今手元にあるアーノルド・ショーンバーグのテキストは、ちょうどシューベルトの作品の具体例を示している。
昨年の三月にウィーンを訪れた時、私はシューベルト博物館に足を運んだ。そして、その後学会のために訪れたザルツブルグの街で、作曲をすることを決意させる啓示的な体験に見舞われた。
その時私は、シューベルトがこの世を去った年齢であった。シューベルトがこの世を去った年齢から作曲を始めたという事実が、シューベルトへの特殊な思いを喚起させる。
また、シューベルトのいくつかの作品に対して、私の内側が多いに共鳴することがあるのも確かだ。そうしたことを考えると、シューベルトに範を求めるというのは何か必然的なことのように思われる。
とりあえず今日から少しばかりシューベルトの作品に範を求めたいと思う。フローニンゲン:2018/1/22(月)08:39 No.675: Work Cycle
I totally lost my sense of time.
It seemed that I immersed myself in my work. It is already dark outside.
From now, I’ll compose music a little bit, then I’ll elaborate my research proposal.
After the elaboration, I’ll spend the rest of time to compose music.
The cycle of my work is ideal. Groningen, 17:13, Monday, 1/22/2018