ポタポタポタとこの世界を静かに洗い流すかのような雨音が聞こえてくる。ぽつりぽつりと置かれている街灯が闇の中に輝いている。
あの街灯を辿ればどこに行き着くのだろうか。そのようなことをぼんやりと考える。
今日は昼食中に、また一つ大切な考えに遭遇した。それは、「発達とは畢竟、善く生きること、美しく生きること、真実に生きることへのプロセスなのではないか?」という考えだった。
真善美のそれぞれの領域は固有の発達現象を持つ。つまりこの世界には、真の階梯、善の階梯、美の階梯が存在しているのだ。
真善美の領域は、絶えず私たちの日々の生活の中に生きており、私たちはそれらと片時も離れることはできない。常に真善美と共に私たちが生きていることに気づいた時、発達プロセスの本質が見えたような気がしたのである。
その考えが浮かぶ以前は、発達と幸福との関係性について考えていた。確かに発達は幸福と結びつきうる側面もあるが、結び付かない側面もある。
幸福というのはもしかすると一時的な状態のようなものであり、それゆえに恒常特性を持つ発達と直接的に結び付かないのではないか、という考えが脳裏をよぎっていた。残念ながら、私たちは四六時中幸福を感じることはできないのではないだろうか。
よくよく冷静にかつ正直に考えてみると、絶えず幸福感を感じているというのはどこか欺瞞に満ちていないだろうか。あるいは、常軌を逸しているとさえ言えることもあるのではないだろうか。
例えば、愛する人がこの世を去った瞬間に、それを幸福だと捉えることができるだろうか。まっとうな感覚を持っている人間であれば、そこに幸福感を見出すことはできないだろう。
どんなに発達を遂げていたとしても、そこに幸福など見出せないはずなのだ。しかし、幸福の代わりに、真善美であればどうだろうか?
愛する人の死の中に幸福を見出すことはできなくても、真善美を見出すことならば可能なのではないだろうか。死という現象に内包された真実、善なるもの、そして美。
私はそれらなら見出せるような気がする。そのようなことを考えていると、やはり幸福というのは状態特性を持つ現象であり、発達段階という永続特性を持つ現象とは完全に合致しないということがおぼろげながら見えてくる。
一方で、私たちはリアリティを構成する真善美の領域と不可分な形で生きているがゆえに、それらは発達現象と密接な関わり合いがありそうだということが見えてくる。確かに発達は幸福と結びつくこともあるが、発達プロセスを幸福への道だと考えるのは乱暴である。
他方、発達プロセスを、善く生きること、美しく生きること、真実に生きることへの道だと捉えることなら可能であるように思える。 雨が天から地上に降ってくるのに応じて、発達プロセスを捉える自分の考えの確からしさが存在の奥底に染み渡っていくかのようだ。フローニンゲン:2018/1/15(月)19:50
No.649: Sound of Start
From where is a sound born and where does it go?
That is a profound question to me.
It is a mystery of why a musical work starts from that sound and why it ends with the sound.
I’ll continue to unravel the mystery through the practice of music composition. Groningen, 09:06, Monday, 1/15/2018