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2006. 犬の走法と創作特性


一見くだらないように思えるかもしれないが、昨日は一つの真剣な問いに捕まっていた。それは、犬はいかように走るのか、という問いだった。

そもそもこの問いが立ったのは、数日前にランニングに出かけた時、犬の散歩をしている何人かの人たちとすれ違ったことがきっかけになっている。私の記憶では、犬は人間のような形で前後左右に足を動かす歩行運動をしているはずだが、走る時は違うのではないか、という疑問が浮かんできたのである。

私の頭の中に犬の走る姿が表象イメージとして現れ、その迫力ある絵図は、人間の走り方とは異なる犬の姿を映し出していた。そのイメージが示していたのは、犬は走る時には前足を同時に蹴り出しているというものだった。

歩くときと走る時の動作が異なるというのはなんと器用なことだろうか。私は頭の中で、犬のように人間は走れるのかを想像していた。

どうやらその可能性は低いようだ。この問いに対しては、実際に次にノーダープラントソン公園へ出かけた時に、走っている犬の姿をしっかり観察したいと思う。 曲を作ることに対する耐性。昨日、ドビュッシーが執筆した美学に関するエッセーを読んでいた時、「ショパンは才能のある作曲家だが、彼の性質上、ソナタのような長い形式の曲を書く耐性に乏しい」という記述に目が止まった。

ショパンに敬意を表しながらも批判を加えるドビュッシーのその言葉を二度ほど繰り返し読んだ時、自分もソナタのような形式を書く資質は一切持ち合わせていないと思った。そのような長い曲を書く耐性は私にはないということが、もしかするとショパンに惹かれていることの一つかもしれない。

日記のように作曲をしたショパンを一つの規範としているのはまさにそのためだろう。私には長編小説は書けない。だが、短編小説なら無数に書くことができるような気がしている。

もちろん、ここで言う「小説」とは音楽のことを指しているが、私はどうも長大な曲を書く資質も能力もないということがはっきりわかってくる。しかし、多種多様な短い曲であればどこまでも書き続けられるような気がするのだ。

もしかすると、それが私の音楽特性なのかもしれない。あるいは、それは音楽だけに限らず、他の創作活動全般に当てはまることなのかもしれない。

今このように書き綴っている日記も一つ一つは決して長いものではない。ただし、そうした小さな文章を無数に書き続けることが私にはできる。

自らの存在をかけて長大な作品を残すことは本当に尊いことであり、多大な価値を持つことであるが、自らの存在をかけて小さな作品を膨大に残し続けることにも尊さと価値があるのではないかと思う。

自分がどちらの道を歩むかはもうはっきりしている。フローニンゲン:2018/1/13(土)20:11

No.641: Ever-Never Loneliness

From birth to death, we are always lonely and not alone always.

Endless loneliness is our destiny, and our everlasting never-loneliness is absolute happiness in our life. Groningen, 10:25, Saturday, 1/13/2018

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