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1996. 言語習得と作曲技術の習得過程及び視覚美と聴覚美


今日はこれから真っ先に作曲理論に関する書籍を読み進めていく。昨日浴槽の中で、作曲技術の習得過程と他の言語を学ぶ学習過程の関係について考えていた。

それは決して考えようとしていたのではなく、考えの方からこちらに歩み寄ってきた形だった。作曲技術の習得過程と外国語やプログラミング言語などの学習過程は非常に似ているように思える。

その言語に固有の語彙を習得し、それらの語彙を組み合わせて有意味なものを生み出すための文法の学習は欠かせない。さらには、そうした語彙や文法を取得するためには、その言語を用いてみるという実践が不可欠となる。

これらの学習要素は、まさに作曲技術の習得においても当てはまる。作曲をするために必要となる語彙が存在し、それらの意味を理解した上で、ある文法規則に則った形で語彙を組み合わせていく必要がある。

ここで述べている語彙というのは、音程とリズムを持つ音符の組み合わせ方に始まり、演奏記号、そして音楽理論が持つ諸々の概念を含む。それらの語彙を獲得し、それを文法規則の中でうまく組み合わせることによって音楽を生み出していく。

そのようなことを考えてみると、私はやはりまだまだ作曲に関する語彙と文法の知識が欠けているように思う。有意味な音楽を作るに際して、活用できる語彙と文法があまりにも貧困すぎる。

ここからは外国語を学ぶのと同じ意識を持って、実践を通じた語彙と文法の獲得に努めていく必要があるだろう。そして何より、その学習プロセスを焦って進めてはならない。

外国語の習得と同じように、作曲技術の習得も長大な時間をかけて行われるべきであるし、外国語の習得、いわんや母国語の涵養ですら終わりはないのであるから、作曲技術の精進も一生涯を賭けてなしていくものであると理解しなければならない。

自分がどのように英語を獲得し、日本語を涵養してきたかをもう一度省みる必要があるだろう。豊かな語彙と深い文法理解の獲得を、毎日の小さな実践を通じて少しずつ実現させていきたい。 そうしたことを考えながら、数日前に考えていた、楽譜の美しさと曲の美しさの関係について再度思考が及んだ。視覚的に美しい音楽は聴覚的にも美しいのではないか、という仮説のようなものが自分の中で芽生えた。

ある美しい曲を聴き、その楽譜を眺めてみると、そこには固有の絵画的な美が顕現されていることが多い。あえて控えめに「多い」と表現したが、今のところ美しいと自分が感じる曲の楽譜を眺めてみた際に、常にそれは絵画的な美を宿している。

ここに聴覚的な美しさと視覚的な美しさは何か見えない糸で繋がっているのではないか、という考えが浮かんでくる。それは美の「絶対的な正しさ」と言えるようなものと関係しているのかもしれない。

あるいは、美が持つ「絶対的な真実」とでも言ったらいいだろうか。これは例えば、絶対的な真実を内包したプログラミングコードや数式が外見上も美しいのと関係している。

視覚的に捉えることのできる外見上の美とそれが真に内包する内側の美は密接につながっているようなのだ。音楽に関して言えば、もしかすると視覚的なものと聴覚的なものの双方が外見上の美であって、それが私たちの内側に引き起こす個別の体験の中に真の美が宿されるのではないだろうか。

作曲実践を通じて作曲そのもの、そして音楽について考えていると、言語、人間発達、美学などの様々な領域と結びついてくる。だからこそ、私はそれら全ての探究を止めることはないのだろう。フローニンゲン:2018/1/11(木)06:13

No.631: Space and Fulfillment

While listening to one of Haydn’s last piano sonatas played by Glenn Gould, my desire to compose soul-soothing music like Haydn’s works appeared.

Although there are many components of such music, I have to understand how to incorporate rest marks in music.

They would generate spaces for our soul to take a rest.

Spaces are not hollows, but they are fulfillment. Groningen:09:11, Thursday, 1/11/2018

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