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1991. 福永武彦『草の花』より


昨日、何かに引き込まれるように、福永武彦氏の『草の花』という小説作品を読み進めていた。昨日の夕方から就寝にかけて読んでいたこともあって、気がつけば半分以上も読み進めている自分がいた。

以前の日記で書き留めていたように、私は小説というものを読むことができない。だが、福永氏のこの作品だけは違った。

日本から福永氏の一連の小説作品を持ち帰ることを決意した時、福永氏の作品世界は他の小説家とは随分と異なることを直感的に感じ取っていた。

それはおそらく、福永氏が作品の中で展開している主題であり、作品の中に込めている思想によるものだと思われる。『草の花』の中においても、「愛」「孤独」「死」という三つの事柄が主題として色濃く立ち現れている。

作品を読み進めていると、小説作品の一文一文を丁寧に読み進めている自分に対して、私自身が信じられないような気持ちになった。しかしその後は、そうした気持ちすらも生じないほどに、福永氏の作品世界の中に入り込んでいる自分がいた。

小説とは非日常の日常世界に誘う力があるらしい。あるいは、日常の非日常世界と言った方が正しいかもしれない。

いずれにせよ、自分にとって大切な意味を持つ小説作品というのはこの世界に存在しているようであり、それは間違いなく、今の自分の世界とそれと違う世界を結びつける。そして読後には、元の世界とは違う世界の中を生き始めることを促す。

自己を捉えて離さない作品にはそのような力が内包されているようなのだ。 作品の中に記載されている情景描写や登場人物の発言のいくつかが、とても感銘を受けるものであった。私はそれらに下線を引き、時に自分の考えなどをその横に書き綴った。

福永氏の作品を読みながら気づいたことがある。それは、傑出した小説作品は、哲学や心理学のどんな優れた学術書よりも人間の本質に近づき得るということだった。

優れた小説作品は、哲学や科学以上に人間の真理に肉薄し、人間存在の本質を開示する力を持っている、ということを初めて理解した。言い換えれば、私にとって、傑出した小説作品以上に人間存在について深く考えさせてくれるものはない、という考えが芽生えたのである。

そのような小説は極めて稀であるが、福永氏の小説はその最良の例である。小説が哲学書や科学書以上に人間存在の本質を開示し得るということに対して、またそれを小説空間という体験場を通じて読者に伝達し得るということに対して、私は嬉しい驚きに襲われていた。フローニンゲン:2018/1/10(水)06:55

No.626: A Back of a Dragon

How do we feel leading a daily life, riding on a back of a dragon?

If you’ve never seen a dragon, your eye of spirit is overshadowed.

We inherently must be living a daily life, riding on a back of your dragon. Groningen, 12:12, Wednesday, 1/10/2018

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