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1963. 時間と発達:文学と音楽


時間はどこにあるのか?という問いを考える際に、今朝から読んでいる書籍の中に興味深い記述を見つけた。

それは、「時間とは運動や変化のうちにある」という記述である。時間とは、私たちの外側にあるものではなく、私自身の内的な運動や内的な変化の中に宿るものなのかもしれない。

自分がある変化を経験したのち、その変化の前後を考えてみた際に初めて時間というものが立ち現れるのである。時間というのは終始一貫して、外的現象ではなく内的現象なのだ、という思いが強くなる。

確かに、外的な時間というものを措定することは可能であり、事実私たちの多くは、そうした外的な時間に従って日常を過ごしている。しかし、そうした時間にばかり囚われていてはならない。

なぜなら、外的な時間というものは、時間の持つ一つの側面に過ぎず、そしてそれは時間の本質的な側面ではないからである。真に時間を感じるというのは、自己の内側の運動や変化を真に感じるということである。

仮に自己の内側に息づく運動や変化を感じ取ることができないのであれば、それは外側の時間感覚に強く縛られて生きていることの証かもしれない。 私は、福永武彦氏の全集の一冊を手に取り、そのページを何気なくめくっていた。そこで展開されている物語の世界に入っていないにもかかわらず、何か自分の内側で動くものを感じた。

私の内側の何かが、福永氏の作品と共鳴しているのが手に取るようにわかった。

福永氏の文章の美しさ。そこには福永氏の思想が実存的な香りと共に立ち込めており、華美でも質素でもない不思議な色調がある。

これまで私は文学とは無縁であり、小説などほとんど読んだことはないのだが、福永氏の小説はじっくりと読み進めたいという強い思いがある。これはもしかすると、私が音楽の探求に乗り出したことと関係しているかもしれない。

音楽を通じた美的探究を進めれば進めるほど、文学と音楽の接点のようなものが見え始めている。その接点を乱暴に述べれば、美に尽きるのだが、文学を通じて音楽体験を、音楽を通じて文学体験を深めたいという思いが今の私にはある。

一時帰国する前の当初は、購入した福永氏の全集のうち、数冊を欧州に持って帰ろうと思ったが、今は購入した全ての全集を持って帰る必要があると強く思う。

それらは、今後欧米での生活を続けていくに際して不可欠のものになる。そんな直感が自分の中で起こった。

文学と音楽。これら二つに耽りながら、自己の生をより深めることができたらなんと幸福だろうか。

文学と音楽に無縁だった私は、今ではそのようなことを思うようになった。山口県光市:2018/1/2(火)10:31

No.600: Active Nirvana

I determined to be a person embodying “active nirvana.”

Every action, every thought, every emotion, and every breath should be done to deeply engage in this world.

While waiting for a flight for Helsinki, I realized again that this reality was a tapestry constructed by the collaboration with everybody.

Literally, this reality is made by everybody and made for everybody.

One node in the tapestry is the whole, whereas the latter is the former.

Like someone else, I’m a tiny but crucial agent to foster the development of the nexus for further truth, goodness, and beauty.

In the sky over Russia, 15:20, Saturday, 1/6/2018

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