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1953. 生きた美術館


今朝は曇りがちな空であったが、天気予報通りに午後からは晴れ間が顔を覗かせた。昨日は穏やかな微風が瀬戸内海を撫でるように吹いていたが、今日は少しばかり風が強い。

それでも夕方前は散歩に適した天気であったため、迷うことなく私は砂浜に足を運んだ。昨日と同様に、最初は軽く海岸線をジョギングし、体が温まってきたらゆっくりと歩くようにしていた。

打ち寄せる波のたくましさは見事であり、昨日と全く表情の違う瀬戸内海を眺めることは飽きない。

この辺りでは極めて珍しいが、外国人の若いカップルが波打ち際をゆっくりと歩き、時折貝殻を拾っていた。私は、遥か彼方の海上に大型タンクを見つけた。

海岸から見てもその姿がはっきりとわかるほどの大きさであり、ここからの距離を考えると、そのタンクの大きさはかなりのものだと思う。「あのタンクの大きさをここからどのように概算できるか?」という問いを立て、砂浜に腰をかがめて、その辺りに落ちていた貝殻を拾って、砂浜上でタンクの長さを計算していた。

しばらく計算に興じた後、私は再び海岸を歩き始めた。今日の空は雲が混じっているのだが、曇り空が顕現している美に気づいてしまい、私はその場で立ち止まらざるをえなかった。

瀬戸内海を覆う灰色の雲の彼方から幾筋もの光が差し込んでいたのである。それは曇り空に後光が差しているかのようであり、光のカーテンと形容していいものだった。

私の視線はずっと、その光のカーテンに包まれていた。我を忘れて光のカーテンの中に自己を委ねた後に、私はふと我に返った。

その美的経験は、生きた美術館が生み出す極めて尊い経験だった。美術館に閉じ込められた作品ではなく、自然そのものが美術館となる。

生きた美術館の中に自分はいるのだという強い実感が私の内側で起こった。そこからさらに私は、自己を取り巻く自然のみならず、究極的にはこの世界が美術館たり得るのではないかという気づきに至った。

もちろん、残念ながらこの現代社会において、全ての場所が美術館たり得るかというとそうではないだろう。悲惨な醜を晒す場所がこの世界にはある。

だが、そうした場所は自然から生み出されたのではなく、私たち人間が生み出したものであるということを忘れてはならない。この世界はもともと美で包まれた場所であったはずである。

少なくとも自然はそうだ。自然は生きた美術館であり、この世界は元々は生きた美術館だったのだ。

私たちはもう一度、この世界に美を取り戻す必要があるのではないだろうか。光のカーテンは、その実現に向けて私を内側から突き動かす。山口県光市:2017/12/31(日)15:33

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