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1950. 如性


今日は本当に暖かい一日だ。昼食を済ませた後、私はしばらくの間、堀辰雄氏の『風立ちぬ』という小説を読んでいた。

作品世界に深く沈み込んで行った後、読書の手を止め、少しばかり仮眠を取った。いつもと同じように20分だけ仮眠を取り、起床してからは海岸に散歩に出かけた。

今日はまさに散歩日和と形容していいかのような日である。最高気温が10度を越していた。

この季節においてオランダで10度を越すようなことはなく、最後に10度を超えたのは九月ごろではないかと思うぐらいである。この季節のオランダでは一日中寒いため、日本においては午後二時の時間帯が一番気温が高くなることをすっかり忘れていた。

散歩に出かけたのは、まさに気温が一番高くなる時間帯であり、どこか私はこの世とは思えない別世界の中を歩いているかのような感覚があった。太陽の光というのはこれほどまでに優しく暖かいものだったのだ。

波の音、そして遠くから聞こえて来るトンビの高らかな鳴き声が、私の耳を癒していく。 砂浜に出て、波打ち際まで近寄ってみると、二羽の小鳥が、波が迫ってきそうな砂浜を立ち止まっては駆けていた。私はしばらく二羽の小鳥の動きをじっと観察していた。

「彼らは一体どうやって、不規則に勢いを変える波を感じ取っているのだろうか?」という疑問が湧いてきた。二羽の小鳥は波が覆いかぶさってきそうなギリギリの場所を動いているにもかかわらず、波に飲まれることなく見事に波打ち際を闊歩している。

その光景が非常に不思議であった。

しばらく二羽の小鳥を観察した後、私は少しばかり砂浜を走った。日本に一時帰国して以降、外出の際はできるだけ歩くようにしていたが、数日前に原因不明の体調不良に陥ってからは自宅でゆっくりとしていた。

そういう事情もあり、久しぶりに散歩をするに際して、時折ジョギングも交えて身体を整えたいと思った。私は晴れ渡った空を仰ぎ見ながら、ゆっくりと砂浜を走っていた。

すると、上空を優雅に舞う何羽かの鳥を発見した。その瞬間、自然の前において人間は全て平等だということを悟った。

いや、本来全ての人間は、人間であるという共通項のみを括りとして全て平等なのだ。そうであるにもかかわらず、私たちは認識という名の檻の中で自己と他者を区別しようとする。

大空に舞う鳥たちがお互いに区別をしているようには見えない。彼らはあるがままの自己を持って空を舞っているのである。

その気づきは私にとって、静かに晴れ渡る冬の晴天の空のようであった。そして私は、実際にそうした空を今この目で見ている。

晴れ渡る空のような気づきと空そのものが、私をどこか遠い認識世界に連れていく。 大空を舞う鳥と人間との違いから、人間の本性が浮き彫りになったような気がした。実際には、大空を舞う鳥と人間には認知的な差異があるが、その差異を超えたところに共通なものがある。

それは生きとし生けるものが持つ「如性」だということに気づいた。鳥は如として一瞬一瞬を生きている。

それでは、私たち人間はどうだろうか?私たちのほとんどは如として生きていない。

人間が持つ認識は究極的には光をもたらすと私は信じている。しかし、多くの人にとって、認識は啓蒙の光をもたらすものではなく、世界を見る目を曇らせ、多くの場合はそれを歪ませている。

私たち人間も、本来は鳥のように如なのだ。自らの如性、そして他者の如性に気づくだろうか。

自他の如性に気づくとき、この世界はきっと違って見え始めるだろう。それこそが本来のあるがままの世界なのだ。山口県光市:2017/12/30(土)15:22

No.595: Trinity of Our Life

Are we living, dancing with mediation? Or, are we living, meditating with dance?

Dancing, meditating, and living could be a trinity. That is the essence of our life, isn’t it? Hikari, Yamaguchi, 13:06, Thursday, 1/4/2018

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