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1940. 対象との合一と真の自由が歌う声


昨日もあれこれと雑多な事柄を考えていたように思う。一つは、対象に向き合うということについてである。

例えば、「音楽作品に向き合う」という表現を私はすることがあるが、果たしてそれは正しい表現なのだろうか。表面的な言葉上は正しいと言えるだろう。

しかし、自分の内的感覚に照らし合わせた身体的な意味で言えばどうだろうか、という点について少しばかり考えていた。例えば、優れた曲の楽譜を眺めている時、はたから見れば、それは楽譜と向き合っているように思えるかもしれない。

ところが、当の本人にしてみれば、楽譜にのめり込み、楽譜の中に没頭していることがあるのだ。そうした場合において、「楽譜と向き合っている」というのは、ひどく不誠実な表現ではないだろうか。

真に対象と向き合っている時、そこは言語矛盾的に、向き合うという概念が成り立たない。なぜなら、向き合おうとする主体も向き合わされる客体もそこにはないからである。

そこにあるのは、主体と客体との合一のみである。向き合おうとするものと向き合わされるものとの区別が溶解し、見るものと見られるものは一つになる。

そのように考えてみると、「音楽作品と向き合う」というのは、あまり納得のいかない表現だということがわかる。深い鑑賞体験においては、そもそも作品と自己が一体となっているはずであろうから、そのような表現はひどく不的確なのだ。 ここから少し考えを拡張し、毎日行っているありとあらゆる活動にその考えを適用してみたい。例えば、作曲実践の際において、作曲実践をするものと実践対象は別なものではなく、本質的には両者は一つである。

読書においてもそうだろう。読むものと読まれるものとの間には、区分など本質的には存在しないのである。仮に何かしらの区分が生じているのであれば、それは道半ばの実践である。

行為への没入からの自己解放。自己解放からの対象との合一。今日の諸々の活動において、対象との合一はどれほどなされるだろうか。 昨日、もう一つ考えていたのは、何者にもなろうとしないという意思すら手放すことの重要性だった。人は何者かになろうとする。

実は、何者かになろうとし、何者かになったかのように思った後でやってくる発達課題が、何者にもなろうとしないことである。そこからさらに新たな課題が生じる。

それは、何者にもなろうとしないという意思すらも手放す課題である。おそらく私は、今その課題の中にいる。

課題に直面しているわけではない。課題の奥深くにいるのだ。

だが、少しずつ、自己は徹頭徹尾、最初から何者でもなかったということに気づき始めている。自己は何者でもないという諦念から、真の自由が歌う声が聞こえ始めている。2017/12/28(木)06:57

No.585: Attractiveness of a Dark Night

A dark night has a mysterious attraction. It sometimes takes us to the edge of a dark underworld, and it sometimes provides us with catharsis.

How about today’s dark night for you? 10:09, Wednesday, 1/3/2018

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