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1936. 瀬戸内海よりも大きな創作物へ


自室の窓から見える瀬戸内海が、早朝の太陽光に照らされて光り輝いている。冬の風が海面を駆け抜け、波が立っている。砂浜には散歩をしている人が散見される。 夢の中にいるかのような感覚が、もう随分と長い間続いている。生の実感は紛れもなくある。

それどころか、生の強烈な実感が血液のごとく、自然なものとして静かに自分の存在に脈打っている。だが、それを超えた形で、自分の上には常に観察的自己が存在しており、その観察的自己の虚偽性すらも把握している自己がいる。

さらには、観察的自己を捉える超越的自己すらもが、もはや自己が存在しえない無空の世界に存在していて、私はその無空の世界にいる感覚をここのところ長らく持っている。この感覚は一体何なのであろうか。 日本に一時帰国してからも、相も変わらず自らのなすべきことについて時折考えている。日記を書き続け、曲を作り続ける生活。

書く文章も曲も、どちらも共に一つの分量はごくわずかである。決して一つの大きな創作物を残さまいとする決意。

そうではなく、一つの小さな創作物を無数に生み出し、その集積体が結果として一つの巨大な創作物になっていくことを想像する。今目の前に見える瀬戸内海のように、毎日、大海の一滴を生み出す。

それを人生の最後の瞬間まで続けて行った時、生み出し続けた一滴は大海になるだろう。それでいいのだ、という言葉を私は自分に投げかける。 日記のような論文、日記のようなエッセイ、日記のような作曲。日々の一瞬一瞬が学術的であり、芸術的な生活。

真の学者や芸術家は本来そのような人物のことを指すのではないかという思いが日増しに強くなってくる。学術論文を爆発的に執筆することを妨げていたものがおぼろげながら見えてきた。

それはおそらく、学術論文の形式を採用することによってしかなしえぬことがあったとしても、その形式を採用することによって、自らが表現したいと思う事柄の幅と深度が著しく制限されてしまうことに気づき始めているのだ。

だから私は、毎日水を飲むように学術論文を書かないのだ。その代わりに、毎日呼吸するかのように日記を書いているのは、日記という表現形式こそが自らの表現したいものを外側に形として残すことを可能にしてくれるからなのだ。

それでは作曲についてはどうだろうか。一般的に作曲というと交響曲や協奏曲をイメージしがちだが、私がそれらの曲を書くことはないだろうと思っていることも、上記で述べた学術論文に対する感覚と同じである。

私が望むのは、とにかく文章として曲として日記を書き続けることだけである。それが自分の仕事であり、生きることである。 一つの日記と曲が物理的な次元で留まっていてはならない。それらの一つ一つが精神的な次元に参入し始めれば、いつかそれらの巨大な総体は間違いなく、今目に映る瀬戸内海よりも大きな創作物となるだろう。2017/12/27(水)10:36

No.581: A Moonlight Night

I’m on a moonlight night that makes me go for a short stroll.

The beauty of nature has something intrinsic that drives us in a silent way. 20:35, Tuesday, 1/2/2018

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