——自然がそこに憩っているような静謐。それは「変貌」と呼ばれるものであった——埴谷雄高 ここ数日間を通じて気づいたが、日本で生活をすることが非日常体験として知覚されている。
品川のホテルに滞在中に一度丸善丸の内本店に行き、そこで和書を数冊購入して以降、実家に戻ってきてからも和書をかなりの量読み続けている。日本語を読んでいることは間違いないのだが、日本語とは別の文字を読んでいるかのような感覚がずっと身体にへばりついている。
文字として認識した日本語を本来身体のどこに落とし込めばよかったのだろうか?そのようなことを考えさせられる。
行き場のわからぬ日本語群が自分の身体の中を漂う。日本語が身体の中を彷徨う感覚は決して不快なものではない。
ただそれが非日常的な感覚として知覚されているだけだ。この非日常体験と相まって、自分の内側からそれほど多くの日本語が出てこない。
欧州で生活をしていた際には、日本語空間から離れているはずであるのに、不思議と日々の日記の量は増えるばかりであった。しかし、いざ日本に一時帰国してみると、日記の量はさほど多くない。
言葉が淀みなく流れていくという感覚もなく、言葉が次々と紡ぎ出されていく感覚もない。これこそが、まだ私が乗り越えることのできていない得体の知れない現象であり、この現象があるからこそ、日本で生活をすることを避けようとする自分がいるのである。
夕方、食卓から穏やかな瀬戸内海が輝いて見えた。季節の折々、そして日々表情を変える瀬戸内海。このような表情豊かな海を眺めながら、日々を過ごすことができて、今はとても幸福な気持ちで満たされている。 夕方から夕食にかけて、父から借りた埴谷雄高著『不合理ゆえに吾信ず』を読んでいた。本書の中で、「人間とは不思議な自己否定へ向かって絶えず進みゆくところの不思議な運動体」という記述を見かけた。
これは以前から私が繰り返し日記に書き留めていたことと全く同一のことでありながらも、埴谷氏が、「自己否定」という言葉の前に「不思議な」という形容詞を付けている点に関心の目が向かった。
「不思議な自己否定」とは一体何であろうか。本書の前半部分で、人間に備わる自己破壊衝動についての言及があった。おそらくそれと何かしらの関係があるだろう。
不思議な自己否定と自己否定の不思議さ。単なる自己肯定からは生まれぬ自己肯定が自己否定の先にはある。それもまた一つ興味深い点だろう。 今日は父から借りた三冊の書籍を読み終えたため、夕食後から就寝に向けては作曲実践に取り掛かりたい。作曲に関しても毎日少しずつの歩みで進んでいる。2017/12/26(火)18:13 No.579: The Arts and Human Development (1973)
Yesterday, I purchased several books, most of which were about music.
One of the books is Howard Gardner’s “The Arts and Human Development: A Psychological Study of the Artistic Process (1973).”
My academic interest has been seized by art in education. Particularly, I want to focus on music education.
Although I have an intention to explore developmental processes of aesthetic experience and specific knowledge and skill of music for children, my central interest is around those for the aged.
I suppose that we, humans, acquire or develop unique aesthetic senses as we come close to the end of our life.
What kind of aesthetic senses do they have? How do they develop?
The topic does not lack interest at all. 06:05, Tuesday, 1/2/2018