数日前、いかに知覚対象を音に転じていくかを今後の大きな主題にしようと思った。この書き方は軽薄な響きのように聞こえるかもしれないが、自分の中では切実な主題であり、それ以上ないほどに希求する事柄だ。
知覚対象のありのまま性、如性を掴み、それを自分の存在を通すことによって、固有な音をいかに生み出していくかという問題。
もう少し問題設定を具体化すると、対象のイデアから生み出される多元色な派生対象を、いかに的確かつ迅速、そして即興的に曲の形にしていくかが、大きな主題として立ち上がっている。
今の私には、知覚対象のイデアそのものを掴み、それを曲にするのは不可能なのではないかと思われる。というのも、対象のイデアは絶対的に一なるものであり、私に見えるのは、そうしたイデアが持つ変幻自在の一側面でしかありえないように思えるのである。
言い換えると、私が日々知覚できるであろうことは、状況や文脈に応じて変幻自在に姿を変えるイデアの一側面でしかないということだ。例えば、昨日のように、フローニンゲンの駅で売られている美しい花にハッとした瞬間、私はその花のイデアに触れていただろう。
だが、触れていたものは厳密にはその花のイデアそのものではなく、その花のイデアがその瞬間に私に開示してくれたイデアの一側面でしかないように思われたのである。
花のイデアに触れた瞬間に得られた感動をもとに作られた曲と、全く違う文脈で花のイデアに触れた瞬間に得られた感動をもとに作られた曲は、全く異なるものになると思われる。
花のイデアという絶対的に一なるものに触れて曲を作ったにもかかわらず、その瞬間の自己が置かれた文脈によって、表現される曲は変わりうるのだ。当然これは、文脈の変化によって、認識主体である自己そのものが変化しているからだろう。
文脈が変化し、自己そのものの視点が変わると、イデアの見方が変わり、これまで見えていなかったイデアの側面が開示されるのではないかと思う。であるから、一つの究極的なイデアが持つ豊穣な多面性に気付けるのだ。
私は、究極的なイデアを曲として捕まえたいとは思っていない。その瞬間、今というその瞬間に自分の眼の前に一瞬姿を現してくれるイデアの一側面を曲として表現したいのである。
その方法など皆目見当はつかないが、その実現に向けて今日も作曲実践に励む。 文章で書き残される日記の数と同じだけの、日記的な曲を毎日残していきたい。それが実際に実現されるまでの道のりは険しく長い。
だが、日記として書き留める対象が、何らかのイデアの一側面であるならば、日記と同じ数だけ毎日曲が生み出されないことの方がおかしいのではないだろうか。
今も、この瞬間も、無数のイデアはその絶対的な姿を私たちに開示しているにもかかわらず、日々を惰性でせわしなく生きる私たちにはそれが見えない。それもまた全くもっておかしな話である。2017/12/10(日)06:27
No.533: Worthiness
It is absolutely worthwhile to bet the rest of my life in music composition.
I thought so. I felt so. So did my spirit and soul. 22:00, Thursday, 12/14/2017