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1882. オーストリアの片田舎オーベルンドルフでの記憶


日々自己を取り巻く現象によって内側に喚起される事柄を、日記や作曲として形にしていく日々が始まってしばらく経つ。それは文章による日記であり、音楽による日記である。

私は文章の執筆にせよ、作曲にせよ、それらを日記のように行うことが持つ、独特の意義と価値を見出し始めている。それらを大袈裟な形で行うのではなく、誰もができる形でそれらを行い続けているのが自分の日々の活動だと言える。

毎日日記を書くことと毎日曲を作ること。それは今日という日を造形することであり、明日を作ることになりはしまいか。

人生の一つ一つの日々を言葉として、音として造形していくのである。造形の持つ喜び。造形がもたらす充実感と幸福感。それらを感じる中で私は日々を過ごしたい。

同時に、多くの人にそれらを感じてほしいという望みがある。自分の人生を生きるというのは、自己を著述することではなかったか。

著述の形は何であってもいいのである。私の場合は、言葉を通じての著述であり、音を通じての著述である。

そのようなことを考えていると、創作活動と著述活動は等しいということが見えてくる。創作とは、自らを著述し、この世界に自らを造形していくことなのだ。

さらには、表現物を造形していくだけではく、自己そのものを造形してくことが、創作の本質なのだろう。 昨夜、私はなぜだか、今年の春に訪れたオーストリアのオーベルンドルフという小さな町での体験について思い出していた。

オーベルンドルフは、モーツァルトの生誕の地であるザルツブルグから電車で数十分ほど北上したところにある。私がオーベルンドルフを訪れたのは、この町にある、『きよしこの夜』が誕生した教会に足を運ぶためであった。

目的は、ただその教会に行くことであった。私は、オーベルンドルフという町、そしてこの町が『きよしこの夜』の誕生の場所であることを、高校生の頃に父から聞いていた。

父の話を聞いてから、十年以上もの月日が経って、私はオーベルンドルフという町に降り立った。山間にあるオーベルンドルフ駅に到着した時の光景を、私は忘れることができない。

改札口などは存在せず、小さな駅舎がポツリとそこに佇んでいた。駅から望む雄麗な自然の姿に私の心は踊った。

目的地の教会に向かうまで、父と自分が時代をまたいでこの町に来たことの意味について考えていた。オーストリアの片田舎にあるこの町に、親子が十年以上もの時間差を超えてやって来たことの不思議さについて私は考えていたのである。

そこに私は、親子の間に存在する絆を見て取った。父は私の父であり、私は父の息子なのだというごくシンプルな気づきが、どれほど感謝の念と幸福さをもたらしただろうか。 昨日、初雪を経験したフローニンゲン。今日の最低気温はマイナス2度とのことである。

今日は雪が降るだろうか。私は、書斎の窓の外に広がる不動の闇の姿を見ながら、自己が充実感と幸福感で溶解してしまうような感覚に包まれていた。2017/12/9(土)07:08

No.527: Inquiry from Our Life

Yesterday, I received an email from my father that contained some insightful remarks.

He referred as Viktor Frankl to argue the meaning of our life.

Surprisingly, my father’s thought on the existential definition of our life was almost perfectly similar to mine.

I realized that I was actually his son.

We often ask our life, but it misses the point. Our life asks us.

What am I asked by my life? What does my life today ask me?

I am listening to the voice of my life. 13:11, Thursday, 12/14/2017

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