時刻は八時を過ぎたが、まだ暗闇の世界が続いている。昨日、ふと気付いた時には、夕方の四時半の段階で今この瞬間のような暗さがあった。
いよいよ本格的に冬の季節に入ったのだと知る。今朝は目覚めを迎えた瞬間に、まぶたを閉じると、無数のイメージが流動している様子を捉えることができた。
これは半覚醒意識の際に時折起こることであり、大抵は昼食後の仮眠の際に起こる。今朝はそのような状態を目覚めの際に経験した。
私たちがよく「イメージ」という言葉を用いているものは、心的現象として実際に眼で見ることが可能である。もちろん、物理的な目を開いた状態でそれを見ることができないが、まぶたを閉じ、心の眼でそれを捉えることが可能となる。
私は、次から次に自分の内面世界で湧き上がるイメージを眺めていた。それは絶え間ないイメージの流れであり、イメージがイメージを呼び込むような現象であるように見えた。
人間とはまさに、こうした絶え間ないイメージを生み出しながら生きている存在なのだと改めて知る。同時に、創造的な人間とは、こうした絶え間なく生成されるイメージを何らかの手段を用いて具現化させることのできる人のことを指すのだと思う。
今朝方私が見ていたイメージは、多分に視覚的であり、多分に聴覚的なものでもあった。つまり、流動するイメージを具体的な形として視覚的に捉えながらも、そこに固有の音が流れていることに気づいたのである。
偉大な作曲家はもしかすると、視覚的かつ聴覚的なイメージを活用しながら作曲活動に従事していたのではないか、と思わされる。
心的現象としてイメージを捉える頻度、言い換えれば、イメージが生成する内的世界に接触する頻度がここ最近増加しているため、今後も引き続き、イメージの源泉とイメージの創出過程を観察したいと思う。 起床直後、いつものようにヨギティーを入れていると、ティーバッグのタグに付された文言に目が止まった。日本語に翻訳すれば、「人生に誤りなどはなく、正誤を下そうとするのは私たちの判断にすぎない」という意味の言葉だった。
早朝から少しハッとさせられるような瞬間だった。「人生に誤りなどない」という言葉がとりわけ強く印象に残っている。ここ数日間の間、自分の人生についてあれこれと考えており、もしかすると私はこれから人生の舵を大きく切るかもしれない。
未だかつて誰も歩んだことのない生き方であり、同時にそれこそが真に一人の人間の生き方であるという思いから、私は今自分が考えているような生き方をこれから実際に進めていくような気がしてならない。
確かにそれは私の意思に基づいてなされる行為なのだが、私の意思を超えた力によって人生がそうならざるをえないという方向に向かっているのもまた確かだ。欧州で日々を送る過程の中で、自分の生き方というものがより鮮明になりつつある。
何か、これまでの生き方に付着していたものが洗い流されるような感覚であり、生きるということの本質的かつ純粋な意味が顔を覗かせ始めていることに気づく。自分の人生において、日々どのような行為をなしながら彼岸に向かっていくのかを、私は徐々に気づき始めている。
人生に誤りなどはなく、そこにあるのは生きることだけであり、生きる過程を通じて積み重ねていく営みだけがそこにある。2017/12/8(金)08:27 No.524: An Impasse and a New Doorway
I felt that I was facing an impasse about music composition.
In particular, I had no idea of how to compose two independent melodies simultaneously.
However, I found a doorway to overcoming the impasse. That was counterpoint.
Since a couple of days ago, I started to read “The study of counterpoint (1965).”
I almost finish the first reading. Because I try to grasp the overview of counterpoint, I do not closely read it.
After the first reading, I will begin to read it again.
In the second reading, I strive to grasp the details of counterpoint. 06:49, Wednesday, 12/13/2017