日々、自分の内側に湧き上がる現象を絶え間なく文章として書き留めることを始めてから、少しばかりの月日が経った。気づかないうちに、それを行うことが日々の習慣の一つとなり、それはもはや習慣を超え始めている。
絶え間なく文章を書き続けることが、この地上で生き続けることと全く等しくなり始めている。言葉を紡ぎ出し続けることによって、私は自分の認識世界を絶えず更新しているかのようである。
言葉を生み出すことは、この現実世界を生み出すことに他ならず、新たな言葉を日々生み出し続けていくことは、この現実世界を日々新たなものにしていくことに他ならないだろう。
言葉を紡ぎ出す過程の中で、自分がこの世界に生きていることを真に感じ、その言葉がまた新たな現実世界を作り出していく。言葉の恩恵を受けながら、言葉を紡ぎ出すことによって、日々の中に宿る充実感や幸福感の原子を捕まえていく。
充実感や幸福感の原子は、実は日常生活の基底に、水や空気のように存在しているものなのだ。本来、この地上で生きる充実感と幸福感は、この地上の遍くところに充満している。
私たちの眼は往々にして曇らされている。だからそうした充実感や幸福感が見えないのだ。
私は、言葉という光を用いることによって、そうした充実感や幸福感の原子を日々の生活の中で絶えず捉えていきたいのだ。最初は意識的な試みかもしれない。
だが、そうした試みを続けていれば、いつか必ず、この地上は充実感や幸福感で満たされたものなのだという気づきに至るだろう。そうした認識世界が開けてくるまで、私は日々を綴り続けたいと思う。
いや、そうした認識世界が開けてきたのであれば、なお一層日々を綴っていくことになるだろう。日々を綴り続けていくこと。
それはいつか必ず、充実感と幸福感の遍満するこの地上の真の姿を開示してくれるだろう。 昨夜夕食を食べながら、日々を言葉で綴ることに加え、日々を音として綴り続けることについて考えていた。日々いかなる時においても、メモ帳さえあれば言葉を書き残しておくことができる。
それと同じように、日々いかなる時でも曲を残しておくことができれば、なんと理想的だろうかと思った。実験として、まずは頭の中だけで作曲実践を行ってみた。
すると、数ヶ月前はそのようなことは全くもって不可能だったのに、今はそれが少し可能になっていることに気づいた。文章の執筆と同様に、作曲も認識世界の中での記号操作を要求されるという点では同じであり、音の記号創出に習熟すれば、それを頭の中だけで行うことは十分に可能なのだと知る。
そこから私は、作曲実践とは書斎の机の上だけで行うものではなく、日々の生活の中の至る場所で行えるものであり、生活の至るところで行っていくべきものなのだと自覚した。
日常のいついかなる場所においても、絶えず言葉を紡ぎ出しているのと同様に、時間と場所を選ばずに作曲を頭の中で行い、そこで生まれた音楽をメモとして書き留めておきたい。
絶えず言葉と音を紡ぎ出していくこと。それは私の人生において不可欠なものとなり、日々が充実感と幸福感そのものになるための尊い営みなのだと知る。2017/12/7(木)06:50
No.519: Toward New Research
I want to conduct new research next year that is based on my three master’s degrees——developmental psychology, talent development and creativity, and evidence-based education.
The new research will be conducted as a visiting fellow at a university in the US.
Since the research requires me to get familiar with psychology in music, I need to look for a couple of professors in the university who specialize in the field.
In the morning, I will search who are familiar with the subject that I will investigate. 07:01, Tuesday, 12/12/2017