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1857. 論理の音


早朝の八時期を迎えても、辺りは一向に闇に包まれている。日が昇る時間もますます遅くなっている。

昨年を振り返ると、確か九時ぐらいまで日が昇らない時期があったため、これからますます日が昇る時間が遅くなっていくのだろう。昨夜考えを巡らせていたことをとりとめもなく書き留めていると、ある音が聞こえてきた。

厳密には、昨夜の思考を書き留めている最中、ある音が聞こえていたのである。それは論理の音だった。

論理と呼ばれるものが内在的に持っている音が聞こえていたのである。先ほど書き留めていたように、言語形態は様々な段階を経ながら発達していくが、段階ごとに音の響きが異なるようだ。

それは自分の内側を観察してみれば一目瞭然である。形式論理言語の音は固く、とがっており、それが洗練されてくればくるほど重厚な響きを持つ。

一方、後形式論理言語の音は柔らかく、丸い。それがより高度に発達してくると、丸みが一層増し、それが包括性を生みだし、多くの意味を包摂することが可能になる。

後形式論理言語の次に待つ、超越論理言語、あるいは詩的言語と呼ばれるものを用いるときには、無音世界に響く音が聞こえてくる。そこでの音は固いといえば固く、柔らかいといえば柔らかい。

それらどちらでもあり、同時にどちらでもないと言える。形式論理言語や後形式論理言語を用いている時に内側に聞こえてくる音と、詩的言語を用いている時に聞こえてくる音の違いは、極めて明確だ。

前者二つは、自らがその音を発している感覚がある。一方、後者は、自らがその音を発しているという感覚がない。

言い換えると、それは自己を超越した存在が発する音であり、同時にそれは自己の存在の中に溶け込んでくるような音なのだ。さらに別の表現で言えば、前者二つのベクトルは、常に内側から外側に向かうものであり、そのベクトル上に音が乗る。

一方、詩的言語のベクトルは、内側の奥から内側の奥の奥へと向かうものであり、そのベクトル上に音が乗っている。このように表現すると、非常にわかりやすいと思う。 今、書斎の中では、エドヴァルド・グリーグのピアノ曲が響き渡っている。それは書斎の隅々へと響き渡っていながらも、自分の内側の奥へ奥へと向かっていく。

論理の音。普段はその音を意識することはないのだが、時にその音が意識せざるをえないほどに強烈に知覚されることがある。昨夜はそうした日だったのだろう。

三つの言語形態が持つ音の形は、上記のように分類することが可能であるが、その音が持つ色については変幻自在に変わりうるということには注意が必要だろう。言語で捉えようとする対象の特質、言語を紡ぎ出す当人の状態に合わせて、言語が生み出す音色は変わる。

今日これから、どのような音色を持つ言語形態を用いながら意味を紡ぎ出していくのか、その観察を続けてみようと思う。2017/12/3(日)08:15

No.502: Transformation of Perceived Phenomena into Sounds

I will transform perceived phenomena into sounds as painters does so as visual images.

This is my main theme to explore in recent days.

Bach’s prelude No.9 touched upon my soul, which evoked my teardrops.

It began to snow again. 17:38, Friday, 12/8/2017

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