先ほど自分が感じていたことはもしかすると、「刹那の切なさ」と形容できるかもしれない。全ての人が向かう共通の最終地点を思う時、その感情はやってくる。
人々は、その最終地点に向かうまで、日々自分のペースで様々な道を歩く。その全生涯に及ぶ過程は長いと言えば長いかもしれない。
しかし、それはある意味刹那の長さである。私たちは刹那の中で生き、刹那の生をやがて終える。
私たちは、最小の時間単位である刹那を大切にしながら日々を生きているだろうか。「刹那の切なさ」という感情が生まれる背景には、ひょっとすると、現代社会の時代の要請によって、刹那の時間がないがしろにされてしまっているという要因を挙げることができるかもしれない。
刹那の豊穣さに気づくことができるだろうか。今この瞬間の刹那に起こっていることは、あまりに多彩であり、それを思うだけでめまいがしそうである。
先日私は、自分の存在が刹那の気づきによって構成されているという気づきを得た。自己とは何なのだろうか。
それは一瞬一瞬の気づきの総体であるということを発見させられたのである。刹那の気づきこそが自己を築き上げているということに気づかされた時、いったい誰がそうした刹那の気づきをないがしろにするだろうか、という思いに至った。
しかし、そうした思いとは裏腹に、現代人の多くは刹那の気づきに意識など払いはしない。刹那の気づきに無自覚であることは、自己に対して無自覚であることを意味し、刹那の気づきをないがしろにすることは、自己をないがしろにすることである。 この世界には、なんと多くの自己がないがしろにされているだろうか。それを思うと胸が苦しくなる。
切なさを通り越し、暗澹たる気持ちになる。自己を見つけるというのは、刹那の気づきを見つけるということである。
私は、日々の充実感や幸福感とは、自己を見つめることの中でしか得られないような気がしている。自己の外側に充実感や幸福感を求めても、それらを得ることができないばかりか、虚偽の充実感と幸福感を掴まされるのが落ちだろう。
自己を見つめるというのは、刹那の気づきに意識を当てるということに他ならず、これは決して自閉的なものではないことがすぐにわかるはずだ。なぜなら、私たちの刹那の気づきは、自己を取り巻く全ての存在との関係によって生み出されているからだ。
目の前の赤いトマト、隣にいる家族、外を吹き抜ける秋の風、そうした存在者が刹那の気づきを育んでくれるのである。なぜそうした刹那の気づきを大切にしようとしないのか。
そうした刹那の気づきを大切にしないのであれば、いったい私たちは何を大切に毎日を生きているのだろうか。刹那の気づきを大切にして生きないというのは、それこそ自閉的かつ自傷的な生き方だと思うのだ。2017/11/11(土)16:06
No.414: Causal Patterns I have recently learned causal inferences in a rigorous way.
In fact, I have taken a couple of courses about this topic.
I am currently reading “Learning causality in a complex world: Understanding of consequence (2012).”
The book introduces six main causal patterns that are beneficial to elucidate complex phenomena.
I will finish reading it by the afternoon and read it again in my near future. 10:06, Saturday, 11/25/2017