ふと書斎の窓の外に視線をやると、辺りがほのかな闇に包まれ始めていることに気づいた。土曜日の五時を少し過ぎた今この瞬間に、自分は存在している。
それを表明することによって、自分の存在を証明しようとする試み。実際には、それは証明とはほど遠く、存在の刹那的な確認に過ぎない。
だが、こうした試みをしながら少しずつ前に進んで行くことが大事だと思う。あるいは、そうした試みに着手しなければ、もはや自分は一歩も前に進んでいけないような気さえしている。
今日は、早朝に二つほど日記を書いて以降、日本語で文章を書くことがなかった。午前中から夕方のこの時間帯にかけて、来週の木曜日に迫った「評価研究の理論と手法」のコースの最終試験に向けて準備をしていた。
予定以上に学習を進めることができ、二日かけて行う分量を今日一日でこなしていった。今の自分の状態を確認すると、もう少しばかり学習を進めることができそうであるため、これから夕食までの時間にもう少し学習を進めていく。
今日取り組んでいたのは、“Experimental and quasi-experimental designs for generalized causal inference (2002)”の第一章から第三章であった。今の自分に理解可能な事柄と不可能な事柄の境界線というものがあり、学習の進め方とその量いかんによって、その境界線が少しずつ引き直させる現象を観察することができる。
これは体感を伴った鮮明な現象であり、実に興味深い現象である。数日前にも今日取り掛かった章の一つを読んでいたのだが、その時に、どうしても理解の難しい概念があり、今はそれを理解する時ではないと判断し、時間を置くことにした。
同テキストの他の章を読み、もう一度今日その箇所に帰ってくると、その概念を身体感覚を通して理解することができた。余白を設け、その過程で絶えず進み、再びそこに帰ってくることの意義を実感する。
「あぁ、これは学習のみならず、人間発達の根幹原理の一つである」という言葉が自然と漏れる。自然と漏れた言葉はまさに、自分の身体を通して起こる生理現象とほぼ同様のものであり、それゆえに、実に自然かつ本質を突いたものだと思う。 私はようやく自分の身体に忠実になって学習を進めることができつつあるように思う。身体から発せられる諸々の感覚や警告などを察知し、それらに基づいて適切に学習を進めていくのである。
余白の設け方や細々とした学習方法は、その一例である。脳を含めた、身体へのほどよい負荷を通じて、自分の内側に知識の体系がネットワーク的に構築されていく。
それはシステム的かつネットワーク的である。知識の獲得プロセスとその発達プロセスの容姿と性質、そしてそれらが引き起こす諸々の五感覚情報を察知しながら学習を進めることができ始めていることは、とても喜ばしい。 この喜びの感情を鎮め、さらに深い喜びの感情へ誘うかのように、雨がしとしとと降り始めた。もう辺りは真っ暗だ。
視界に入る街灯が黄色く闇の世界に浮かんでいる。今日という一日はまだもう少し続きがある。2017/11/4(土)17:31
No.382: Creation and Mistakes I will learn by creating and making mistakes.
Both creation and mistakes deepen the quality of my life.
My life is filled with an infinite amount of creation and mistakes.
Quantity and quality unite with each other here.
In other words, the number of mistakes corresponds with the quality of life.
I will continue to walk with a flood of creation and mistakes.
The process of my life is a continuous flow of creation and mistakes. 20:39, Monday, 11/13/2017