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1719. 言葉と自己の深化


昨日は、随分と集中的に論文を読み込んでいたように思う。「学習理論と教授法」の最終試験が明日に迫り、どのような問題が出題されるのか、今から少し楽しみな自分がいる。

というのも、今回の試験は自由記述式のものであり、試験最中の集中した意識を通じて文章を書くというのは、非日常体験の一種だからである。そうした非日常体験の中で文章を生み出すことはそれほど多くない。

興味深いのは、非日常体験の中で文章を生み出す前後の自分に変化が生じることだろう。今回は確かに単なる試験に過ぎないのだが、試験に向けて学習を進め、学習した事柄を非日常体験としての試験の中で表現した後の自己は、必ずやその体験の前の自己と異なる。

もちろん、そうしたことが生じるためには様々な条件が必要である。今回の試験に限って言えば、その試験に向けてどれだけ学習を深めていったかが一つの重要な要因となり、学習を深めていく過程がどのようなものであったかも大切な要因となる。

学習の度合いと学習過程の性質によって、試験という非日常体験の前後で変化が生じるのか否かが決まってくるように思う。明日の試験は、学習理論と教授法について文章を書く集大成となる場であり、一旦ここでそれらの探究項目から時間的・空間的な距離を置こうと思う。 昨日に集中的な論文の読み込みを行っていたこともあって、それらの内容を咀嚼するために十分な睡眠が必要だったのだと思う。自分の中では、学習項目を詰め込み過ぎないようにすることをいつも心がけているが、昨日は少しばかり多くのことを学び過ぎたのかもしれない。

今日はその点に意識を向けながら、試験に向けた最後の準備をしていく。 一昨日あたりにふと、一つ一つの言葉を身体から掴み直していくことの重要性について考えていた。私が初めて日本の外で生活を始めたのは、今から六年半ほど前のことになる。

最初の生活地は米国であり、当時の私は、英語が身体を通じて外側に出てこないことに苦しんでいたと思う。それは、外というベクトルのみならず、内へというベクトルに関しても同様の苦しみがあった。

つまり、英語が身体を通じて内側に入ってくる感覚と、身体を通じて外側に出ていく感覚が欠落していたのだ。あれから六年半の月日が流れた。

当時に比べれば、随分と身体を通じて英語が内側に入り、外側に出ていくようになった。だが、自分の日本語ですらもまだ発達過程にあることから明らかなように、外国語としての英語の発達はまだまだである。

日本語も英語もどちらも、同じだけ未熟であることに変わりはない。言葉を深めていくことは、自己を深めることである。

言葉の深化は、存在の深化である。日本語が英語になり、英語が日本語になる次元まで、二つの自然言語を自分の中で深めていきたいと思う。

もはや自分は知っている。日本語が自己であり、自己が日本語であり、英語が自己であり、自己が英語であることを。

今日からまた、自己に他ならぬ一つ一つの言葉を身体から掴み直していくという生き方の中で日々を過ごしていく。2017/10/31(火)08:46

No.364: After the Exam Finally, the last exam in this block in this semester ended today.

I was spending leisure time in reading whatever I want.

I will restart my work from tomorrow, in particular, finishing the draft of two documents; one is for the conference in London in 2018 and the other is a short article about adult learning for business people.

Since the next block requires only one or no exam, I can have enough time to read not only required text books and articles but also books and articles in the domain in which I am interested.

I want to celebrate today and tomorrow. 19:25, Thursday, 11/9/2017

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