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1589. 知識の裸体と触れる体験


書斎にはハイドンのピアノソナタが流れている。誰かに遮られることもなく、何にも遮られることなく、音の旋律が滑らかに流れていく。

その滑らかな旋律が私の身体にすっと流れ込んでくるかのようである。今朝の仕事を始めてから30分ほどが経った。

昨日の朝は少し暖かく感じたが、今朝は少しばかり冷えていたので暖房をつけた。自己をその存在の粒子にまで凝縮させるあの冬がやってくることを待つ。

今年の冬はもしかすると、「あの冬」にならないかもしれない。その代わり、「この冬」になるような気がしている。昨年の冬は単に気温が厳しかったのではない。

そのようなことは、自分にとって一切の問題ではない。実存的な厳しさがあの冬の中にあったのだ。仮にあの冬と同じものが今年にやって来たとしても、私はそれを速やかに乗り越えていくだろう。

なぜなら、それをすでに一度通過しているからである。では、今年の冬はどうだろうか。

あの冬ではなく、この冬になった場合、私は何を考え、何を感じ、どのようにしてその冬と向き合っていくのだろうか。今年の冬を過小に見積もっているわけではなく、過大に見積もっているわけでもない。

だが、とにかくまた得体の知れない冬が訪れるであろうという予感だけがある。今年の冬の足音が、ハイドンの曲と同じぐらいに、いやそれ以上に鮮やかなものとして聴こえてくる。 数日前に、知識の持つ性質に対して初めての経験をした。知識というのものを経験したことがあるだろうか。

知識そのものの裸体と触れたことはあるだろうか、と問えばわかりやすいだろう。知識の裸体と触れる感覚が数日前にあった。これはとても不思議な感覚だった。

可能な限り、もう少し説明を加えておきたい。知識そのものの裸体と触れる感覚は、思考する自己と知識が一体となる感覚なのだが、思考する自己は自分が知識に接近していく様子をつぶさに感得し、知識と一体となった時には、自己と知識が不可分のものであったと気づくのである。

思考と知識の関係に横たわるこの密着感を感じたのが数日前の体験であった。哲学において、特に認識論は知識の性質について扱っている。

哲学にはそれこそ無数の領域があるが、なぜだか認識論の領域は以前から私の関心の糸を静かに引いていた。知識の性質について考える際に、存在の性質について考えざるをえないということを示唆しているのが、この体験であるように思える。

おそらく多くの人が思う知識は自己の存在ではないが、私が一体となった知識はまさに自己の存在に他ならない。知識を知識と呼ぶためには、存在との密着性と不可分性が欠くことのできない要素になるのではないか。

あの一体感を引き起こさない知識など、私にはもはや必要ない。そのようなものを獲得するために日々を生きないようにする。

いやむしろ、そのような知識を獲得したと思った瞬間に、それは存在との密着性と不可分性がないために、即座に風化の道を歩むことになるだろう。知識というのは肉体の眼には決して見えないのだが、心の眼には確かに見えるのだということをあの体験は伝え、さらには、知識と自己の深層的な関係について示唆してくれたのがあの体験であった。2017/9/26(火)06:57

No.234: On a Despondent Day Because of the interior and exterior weather, I hesitate to say that I am fine today.

As mentioned before, the weather is dim today. Corresponding to the external weather, my internal weather——the dynamic construction of my feelings and emotions——is also feeble.

My observation demonstrates that I feel somewhat despondent in one day every week.

On such a day, I avoid talking with others, but writing and music composition are always with me. 13:21, Wednesday, 9/27/2017

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