質素で簡素な毎日が静かに進行していく生活。こうした生活を、人生の最後の日まで守り抜きたいと強く思う。
質素で簡素な規則的な生活の中に、絶え間ざる変化を見出す生活。華美で不規則な生活の中にあっては、皮肉なことに、変動性に溢れる変化を見出すことができない。
水の中にいる魚が水の中にいることに気付けないのは、魚が水の中にいるからだ。人間も一緒である。
自己の内と外に絶え間ない変化を見出すためには、自己の内と外を包む生活全体を規則的なものにしていく必要がある。今日という私の一日は、実に質素で簡素だろう。
だが、今日という日に含まれる無数の変化を私は見て取ることができると確信している。 日々の日記の一つ一つの記事が、いつも大抵、400字詰めの原稿用紙3枚から4枚ほどであることに気づく。その瞬間瞬間に湧き上がることを文章の形に残そうとすると、大抵そのぐらいの分量で落ち着くのだ。
短く書こうとすることや長く書こうとすることなど一切意識することなく、湧き上がる事柄が必然的に落ち着くべき形になったところで文章を書き終えることにしている。最初から文章の終止符をどこに置くのかなど一切考えず、形になろうとするものが必然的な形になったところで筆を置く。
文章を実際に書いてみればわかると思うが、原稿用紙3枚から4枚ほどの分量はそれほど多いものではない。以前に私は、原稿用紙1枚も何かを書くことのできない生き方について批判的なことを書いていたように思う。
それをもう一度、不特定多数の誰かに向けてではなく、自分に言い聞かせたいと思う。確かに、私は日々、原稿用紙1枚以上の事柄を書き続けている。
私が批判をしようと思っていたのは、自らが従事するその他の表現活動についてである。英文にして400字ほどの論文の断片を毎日書けない日々は、真に学術探究に従事していると言えるのだろうか。
仮にたった400字ほどの文章が書けないのであれば、探究姿勢と探究の進め方を根本から見直す必要があるだろう。とにかくこの、文章を書けない自分から脱却するには、今の自分を完全に打ち壊す必要があるだろう。
あるいは、探究姿勢そのものを燃やし尽くし、焼け野原から再び新たな探究姿勢の芽を育てていく必要があるように思うのだ。これは日々の作曲についても全く同じである。
一日に一曲を作ることができないのであれば、日々の生き方をもう一度見直したほうがいい。仮に日々を音楽的に生きているのであれば、必然的にそれが少なくとも一つの曲として形になるはずなのだ。
それができない毎日は、きっとどこかおかしい。質素で簡素な毎日を送る中で、文章を書けない自分と曲を作れない今の自分を完全に破壊したいと思う。
今の自分には大変申し訳ないが、そうすることしか生きようがない。完膚なきまでに今の自分の現状を否定し、否定の底から蘇って欲しいと思う。
フローニンゲンの秋の日曜日の朝は、やはりとても穏やかだ。2017/9/24(日)09:15
No.227: Magical Power in a Dream Whenever I have a dream, I keep a dream diary after I get up.
I still have vivid images about the dream that I had last night. I already wrote them down in Japanese, so I will just select the most impressive image.
It is that I had a magical power to alter weather. Standing on a beach, I was looking at the sea and sky.
An ominous dark cloud was in the sky, which foretold rain with thunder. Suddenly, I began to move my hands as if I was solving a Rubik’s Cube.
Corresponding to my hand move, the weather gradually changed. The sky became crystal clear.
Then, I realized that I could alter this physical reality by my power. I started to try it, but my dream suddenly ended there. 08:07, Monday, 9/25/2017