ランニングから戻ってきて、先ほど昼食を済ませた。秋晴れのフローニンゲンの空を食卓の窓越しに眺めながら摂る食事は格別だ。
この場所でしか考えられぬこと、この場所でしか感じられぬことと、今は存分に向き合いたいと思う。いや、そうした思考や感覚と向き合うというよりも、それらを存分に享受したいという思いの方が強い。
私はこの街を愛している。しかし、この街にずっといられないことを知っている。
先ほどのランニング中にも、何かの始まりは即終わりを内に抱えているという問題にぶつかっていた。始まりと終わりの両方を超えていく必要が私にはあった。
しかし、この問題への向き合い方の答えはまだ自分にはない。何かが始まったことを無視するわけにはいかず、何かの始まりと共に終わりを意識せずにはいられない。
始まりと終わりを超えた何かを自分の内側で明確にしなければならない。その何かは永遠なものであることは間違いないだろう。
だが、それが存在に触れる形で知覚することはまだ難しい。フローニンゲンでの二年目の生活が始まって一ヶ月が経った。もうすでに、この街にいられる期間は一年を切っている。
昨年の考えから二転三転して、今のところはオランダでの二年間が終わったら、米国に戻ろうと思っている。次の街には五年から十年ほど落ち着き、再び欧州のどこかの国に戻ってきたいと考えている。
このような計画は今後どのようにも変わりうるだろうが、今はそのような考えを持っている。 ランニングに出かける前に、行為をなす目的や理由を問われた時に、多くの人はどうして易々とそれに回答することができるのだろうか、ということに疑問を持っていた。
人に行為をなす理由や目的を問われ、それについて簡単に目的や理由を答えることができてしまうほどの行為にしか従事していないのだろうか。そのような行為に果たして本当の意味はあるのだろうか。
「目的や理由を持って行動せよ」というのは、単なる通説にもかかわらず、それを自らの行為の全てに当てはめようとしてはいないだろうか。行為をなす目的や理由を問われ、それについて反射的に何かを口に出した時、その答えの浅薄さに哀しみを覚えたことはないだろうか。
あるいは、ちょっとした違和感であってもいい。そうした感情や感覚に襲われたことがあると言ってほしい。
でなければ、もう取り返しのつかないほどに、目的絶対主義に絡め取られた日々を送っていることになるからだ。自分が日々なす行為について、目的や理由を問われると、正直なところ、私は何も答えることができないと思う。
要するに、自分の日々の活動の一つ一つには、人に尋ねられて答えられるような明確な目的や理由などないのである。であるからして、全ての行為が究極的な目的と理由のもとになされていることを知る。
究極的なものに目的や理由などなく、それはもはや名付けようのないものなのではないだろうか。他の多くの人たちが、美辞麗句に飾り立てられた目的と理由のもとに日々の行為を営んでいたとしても、私は名付けようのない目的と理由と共に日々の行為を営みたいと思う。2017/9/23(土)13:32
No.223: Endemic Self-Deception I can see endemic self-deception in this society.
We are living with self-deception unconsciously. The society guilefully forces us to deceive ourselves.
Unfortunately, most of us cannot notice it. As a result, we can easily see a number of words and dialogue saturated with self-deception. 11:17, Sunday, 9/24/2017