これこそがフローニンゲンの秋の空だ、と思わんばかりの空が広がっている。今朝は五時半から仕事を開始し、11時を過ぎたあたりでランニングに出かけた。
ここ最近は、ランニング後にインドネシアンレストランに足を運ぶことが習慣になっていたたため、近所の河川敷を走ることはめっきりなくなっていた。運動する日を少しばかり変更し、今日からは以前のように、週末にもランニングに出かけることにした。
自宅を出発してすぐに目に付いたのは、近所の家の壁に、真っ赤に紅葉した無数の葉が生い茂っていたことである。その鮮やかな赤色に、私は思わず息を飲んだ。
気づかないうちに、もう秋はとうの昔にやってきていたのである。近所の河川敷は以前と変わらずにのどかであり、犬の散歩をする人や河川敷で釣りをしている人などを見かけた。
ランニングの途中、思考が無になり、思考空間に空白が生まれた。そこに染み渡るように一つの考えが湧いてきた。
余白を作る意義というのは、まさにここにあるのだと思った。私たちが向き合うべき重要なテーマとは、こうした余白から滲み出してくるものなのだ。
逆に言えば、こうした余白が自己の内側になければ、私たちは自分にとって大切な問題と向き合うことなどできないだろう。その時に余白に滲み出してきた考えは、自分個人の問題が日本の問題と一致するということだった。
それに付随して、国籍の問題が現れた。両者はともに、自分にとって密接に結びついた問題だ。
欧米で生活をしていると、当然ながら時に国籍を尋ねられることがある。また、公的書類にも国籍の記載が求められることが度々ある。
そのたびに私は、ふと自分の国籍について考えることが増えてきた。「考える」と言っても、「国籍とは何だろうか?」「自分にとって国籍とは何か?」という問いだけが自分の内側を流れるだけだ。
だが、こうした流れを何度も経験してきたためか、先ほどのランニングの途中に、この問いに立ち止まらざるをえなくなった。法律上の国籍などあってないようなものである。
それは確かに重要な事柄ではあるが、私が問題にしていたのはそのような点ではない。自分が日本人足りえるか、という問題であり、どのようにすれば真の日本人だと言えるのか、という問題である。
欧米での生活が六年目を迎える頃、自分の中で少しばかり顕著な変化があった。それは、自分の問題が日本の問題と根底でつながっていることへの強い自覚が芽生えたことである。
その自覚によって、自分が真に日本人になりつつあることを実感し始めたのである。今までは、単に法的な意味で日本人という衣を着せられているだけであり、中身は何もなかったのだということに気づかされる。
ある人間がその国の人間になるというのは、その人物の個人的な問題とその国の問題がつながっているということを根本条件とし、当人にその自覚が起こるかどうかにかかっているような気がしてならない。
そうした意味で、私はようやく自分の国籍が日本人だと言えるようになりつつある。ランニングの足を前に進めるごとに、私はなぜこのような問題をオランダで考えているのか不思議に思った。
いや、日本の外にいるがゆえに、そのようなことを考えるのは当然なのかもしれない。日本の外にいて、日本の内のことを考えることは必然なことなのかもしれない。
身体的に外にいるというよりも、精神的に外にいるからこそ、精神的に日本の内を捉えることができるのだ。真に日本国籍を持つ日本人を私はほとんど見ない。
本当の日本人を見ないことはいつも残念に思う。真の日本人は、個人の内面の問題が日本の問題と完全に一致するはずなのだ。
日本にいながらにして、精神的に外側に出て、そこからさらに内側に戻る形で我が国の問題を掴み直すことは、やはり難しいことなのかもしれない。だが、それをしなければ、日本に日本人はいなくなる。2017/9/23(土)13:07
No.222: Location of Responsibility for Adult Education While listing up stakeholders who are responsible for the quality of primary and secondary education, I suddenly came up with a question.
It is: “Who are stakeholders for adult education?” I was thinking about the location of responsibility for adult education in this modern society.
I thought that there would be two issues. One is that the location of responsibility is vague, and the other is that nobody takes responsibility for adult education.
I doubt that modern adults are ethically and morally mature; I might say that they are intellectually immature.
We need a new type of adult education so that we can tackle the modern societal issues. It should provide us with robust knowledge and skills and transform ourselves not in a nominal and symbolic sense but in a substantial and practical sense.
We should clarify the location of responsibility for adult education and take responsibility for ourselves to emancipate us. 11:09, Sunday, 9/24/2017