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1567. ようやく気付いたこと


朝と夜のみならず、日中の気温も下がり始め、外出中に長袖だけでは寒くなってきた。実際に、道行く人たちのほとんどはジャケットを羽織り始めている。

今週はもう外出する予定はないから、来週から私もジャケットを羽織って出かけることにしたいと思う。今日は午前中に、「実証的教育学」の二回目のクラスに参加した。

つくづく、このクラスは内容が練られていると思う。各回のクラスで出される課題をこなしながらコースを進めていけば、実証的教育学に関する理論が自然と身につくようなカリキュラムが組まれている。

もちろん、昨年私が所属していた発達心理学科のプログラムにおけるどのコースもよく練られたものだったが、今回のプログラムは教育学科に属するものであり、教授陣が学習理論や教育研究に精通しているためもあってか、どのコースもカリキュラムが洗練されている。

私自身もカリキュラムを作り、教育プログラムを提供することもあるため、現在履修しているコースのカリキュラム設計は非常に参考になる。単純に、どのような内容のコンテンツが提供されているかに着目するのではなく、それらのコンテンツがどのような順番で、さらにはどのような課題と組み合わせて提供されているかに着目する必要がある。

また、それらのカリキュラム設計の裏に、どのような学習理論の枠組みや実証研究の成果があるのかを探ってみることも有益だろう。

本日のクラスに参加しながら、講義の内容とは直接関係しない次のような事柄をぼんやりと考えていた。

このコースの最終課題では、教育改革を必要とする学校のケースを自分で作成し、それに対して、分析評価と改革案の提示を行っていくことが求められている。最終成果物として、二つの関係当事者に向けてレポートを書くことが要求されている。

一つは、教師を含めた学校関係者に向けてのレポートであり、もう一方は、教育科学者に向けてのレポートである。後者のレポートは、多くの学術論文が採用するAPAスタイルに則って執筆することが要求されている。

しかし、前者のレポートは、APAスタイルを用いてはならないことになっている。この制約条件は非常に面白い。

これまで欧米で三つの修士課程に在籍してきたが、どのコースにおいても期末レポートはAPAスタイルに従わなければならなかった。将来の研究者や学者を育てるという意味においては、そうした形で期末論文を執筆させるというのは納得がいく。

一方、今回の課題では、あえてAPAスタイルを用いないレポートを執筆することが要求されているのだ。日本語の論文でも状況はほぼ同じだと思うが、APAスタイルで執筆された文章は学術論文の体裁を取るため、実務家や一般の人にとっては非常に読みづらいと感じるだろう。

文章の至るところに、専門書や論文の引用がなされているため、APAスタイルの文章は、学術論文を読み慣れていない者はどうしても敬遠してしまうような類いの文章だと言える。講義の内容とは全く関係のないところで、私は一人ハッとした思いになっていた。

これまでは、何も意識することなく学術論文を読み、学術論文を執筆してきたが、それらの文章形式は、特殊な情報資源であることにようやく気付いたのである。つまり、そうした文章は、学術論文を読みこなすための特殊なリテラシーがなければ、アクセスできない類いの情報媒体なのである。

このような当たり前なことにようやく気付いた。例えば、今回の課題で要求されているレポートをAPAスタイルで執筆し、それを学校関係者に単に手渡しても、ほとんど読まれることはないのではないかと思う。

ここに、今回の課題が要求していることの意図があるように思う。要するに、学術論文を読み慣れていない実務家に対しては、彼らに伝わりやすい形の文章を執筆していく必要があるのだ。

これは何とも当たり前のことなのだが、日々学術研究に従事していると、とかくこのような当たり前のことすらも忘れてしまいつつある自分にようやく気付いた。思い返せば、七年前の私も学術論文には全く無縁な実務家だったのだ。

学術研究に従事すれば従事するほどに、自分の専門分野の研究内容の性質を考慮に入れると、研究で得られた成果は企業や学校を含め、実務の世界に還元していく必要があることに気づかされる。その際に、必要な関係者に適切な形の文章で研究成果を伝えていくことが何よりも重要である。

おそらく、今後の私に求められるのは、発達科学や教育哲学を通じて得られた知見を、学術論文のみならず、しかるべき文章形式でそれを適切な関係当事者に伝えていくことなのかもしれない。

そうなってくると、様々な文章表現技法を今後も磨いてく必要がありそうだ。2017/9/20(水)20:12

No.213: Importance of Not-Doings We are apt to seek for doings. For example, we are often eager to find out what we have to do for accomplishing something.

The situation can be seen many times in the field of education. People are desperately looking for what they should do to develop themselves or their children.

However, why don’t we stop seeking for doings? Of course, we cannot completely end finding out doings, but I want to insist that we have to loosen our impulse to seek for doings.

After relaxing our drive to seek for doings, we need to consider what we should not do. Since we are seeking creatures, it is difficult to stop seeking.

If so, let’s just seek for not-doings. 13:43, Thursday, 9/22/2017

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