気がつけば、今日も一日が終わりに近づいている。時刻は午後の八時を過ぎ、辺りがすでに薄暗くなり始めている。
先ほど、西の空に、夕日で赤紫色に照らされた美しい空を見た。ホログムラのように輝くあのような空を見たのは随分久しぶりのことなのではないかと思う。
今日は午前中から文章を書くことに従事し続けるような一日であった。現在履修中のコースの中でも、とりわけ「評価研究の理論と手法」のコースの課題は、比較的多くの文章を書くことを要求している。
このコースでは、自由記述形式の最終試験に加え、教育問題に関する一つのケーススタディに対して、毎週のクラスのトピックに応じて、ケースに対する分析をレポートの形にまとめていくことが課せられている。
今週の課題は、四つの問いから構成されており、それらの問いへの回答で課せられている字数の上限値を合計すると、2,000字ほどになる。これから五週間に渡って、同じケースに対して、異なる角度から同様の分量を要求する課題が出されるであろうから、結局この課題は合計で10,000字ほどの上限値を持つことになるかもしれない。
昨年執筆した修士論文の上限値は、まさに10,000字であり、下手をすると、これから五週間ほどの間に、修士論文一つほどの分量の文章を執筆することになるかもしれない。
今回の課題の文字数の上限値が2,000字ということだけであり、当然ながら上限値よりも少ない形でレポートを提出することになるだろう。そのため、厳密には修士論文ほどの文章を書くことにはならないと思うが、それに準ずるぐらいの文章執筆が課せられていると言っても過言ではない。
今日もまずはドラフトがてらに文章を執筆し始めたところ、書くことを止められなくなり、結局、1,400字ほどの文章を書いていた。また、それに並行して、とりとめもない英文日記を500字ほど書き留めておいたため、合計で2,000字ほどの文章を書いていたことになる。
今の私は、科学論文を書くための、自分の専門領域に関する知識が圧倒的に欠落しており、自分を捉えて離さない主題を明確にすることがまだ不完全だという課題を抱えている。しかし、ひとたびこれらの課題を解決することができたら、本当に少なくとも隔週で査読付き論文を執筆できるようになるだろう。
もしかしたら、毎週一本の論文を書くことができるかもしれない。実際に、本日はランニングに出かけたり、作曲実践を行うことも挟んでいたにも関わらず——むしろそれらの実践を取り入れることが良い気分転換になっているのかもしれないが——、2,000字ほどの文章を自然と執筆していた自分がいるため、一週間に10,000字ほどの英文を書いていくことは、正直なところ全くもって苦ではない。
10,000字ほどの分量を呼吸をするのとほぼ同じ感覚で書いている自分を見ると、あとは自分の専門領域に関するより深い知識の獲得と研修手法への習熟、そして何より研究主題の明確化を行えば、絶えず論文を書き続けるという日が実現する景色が開けてきた。
10,000字の論文というのは、実は分量が少々多いため、そうなってくると、数年後、もしくは10年後あたりからは、毎週一本の論文を執筆するような平凡な学術生活を営んでいるかもしれない。正直なところ、もっと激しくていいかもしれないと思う。
毎週にたった一本の論文しか書かないというのは、内側に湧き上がる熱情に蓋をするようなことを意味しているように思えて仕方ない。人生のある時期においては、二、三日に一本の論文のドラフトを書き上げるようになる気がしている。
しかも、それは自分に無理をさせる形ではなく、三食食事を摂るのと全く変わりのない当たり前さの中で行われるような気がしてならない。今、日々を生きて行く中で最も困難なことは、執筆衝動を抑えることである。
来るべき時に、この執筆衝動を完全に解放してしまうと思っている。自己が文章の執筆行為の中に溶解し、気づけば自分の存在が文字だったという状態を望む。
また、文字だけではなく、日々絶えず曲を生み出す日が近い将来に到来すれば、自分の存在が音だったと思える状態になるだろう。激しさが欠落していて面白みに欠けるかもしれないが、とにかく私は後少なくとも80年間ほど、文章と曲を作り続けることだけに従事したいのだ。
一過性の激しさではなく、永遠の継続性を優先させたい。であれば、毎日、日本語は6.500字、英語は2,000字ほどの執筆に留め、曲は3曲ほど作るだけに留めることが望ましいかもしれない。
そうであれば、全く無理をすることなく、後80年間ほどは創作活動に従事できるような気がしている。2017/9/19(火)20:42
No.210: Existential Heaviness How can we tolerate our selves? The question was casted upon me in the dream last night.
People in the modern society are struggling with finding out their true selves, but my question is whether they can really endure themselves after discovering their true nature.
It means that our true selves have much more existential seriousness than we think. I guess that most people cannot bear the heaviness of their true selves even if they discover them. 11:04, Thursday, 9/22/2017