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1563. 幻想の向こう側にあるリアル


自分が今このようにしてオランダで生活をしていることが、ときにとても不思議に思う。先ほど書斎の窓越しから、道行く人を何気なく眺めていると、改めてそのようなことを思った。

そして、私が今オランダという国にいることが、とても愉快なことのように思え、思わず笑みがこぼれた。

一体自分は、どこからどのようにしてここに来て、一体何に向かって今日という一日を過ごしているのかという問いは、日々様々な場面で立ち現れる。

今日という一日が、どこからかやってきて、またどこかに向かっていくのを感じながらも、一方で、全く動かずにたたずむ今日という一日の中で、常に自分は生きているような感じがするのである。

早朝からフローニンゲンの街を覆っていた霧が徐々に晴れてきた。霧が晴れるに従って、様々な生き物たちの姿が見え始めた。

目の前に見える木々の上の方に小鳥が止まり、か細く、それでいて透き通るようにはっきりとした鳴き声を発し始めた。

欧州での生活を始めて以降、私は頻繁に、自分の生の奥深くに入っていき、生を通じて自らの生を生きているという強い実感を得ることが多くなった。ここで不思議なのは、そうした実感にはいつも決まって、自分が生きているのかわからなくなるような感覚が伴うことだ。

つまり、生の通常感覚を超えたところにある生の充実感に触れる時、生きているという実感そのものが、実はそれほど明確なものではなくなるのである。生の本質的な実感とは、ひょっとすると、何か明瞭な強い感覚というものではなく、もっと素朴な自然なものなのかもしれない。

自分が本当に生きているのかわらかなくなる感覚というのは、死の擬似的な体験だと捉えていいかもしれない。そのように考えると、生の本質的な実感は、こうした死の先取り体験の中に芽生えるものなのではないか、という思いが湧き上がってくる。

早朝の霧はほとんど晴れた。一方、私の全身は、まだ不思議なものに包まれている。 先ほど、幻想的な景色が残っている最中に朝食を摂っていた。そこでふと、この現実世界の幻想性を指摘する人の発言には慎重にならなければならない、と思った。

ある人が「この世界は幻想である」と述べるとき、その人はこの世界が内包する幻想性を見誤っているように思える。私たちは、幻想性を生み出すリアルなものを見なければならない。

より正確には、幻想を生み出す幻想の奥にあるリアルを捉えなければならないのだ。でなければ、「この世界は幻想である」という部分的な真理に全てが飲み込まれてしまうだろう。

幻想を作り出す「それ」を特定しなければならない。あるいは、幻想を生み出す「それ」を作り出している基底を発見しなければならない。

でなければ、この世界は虚無に帰してしまう。リアル以上にリアルなこの世界の真相を見るように努めることは、そうした乱暴な虚無的思想に対抗するために無くてはならないものだろう。

それよりもむしろ、リアル以上にリアルなこの世界の真相こそが、死の先取りに縁取られた生の本質的な実感をもたらすものだと思うのだ。2017/9/19(火)09:23

No.209: Specifying Philosophical Discourse Domains I was reading a book of philosophy addressing general concepts and arguments.

I realized that my main interest did not exist in general philosophical discourses. I need to specify a domain of philosophical discourses in which I want to participate.

The choice is simple, and the domain should be philosophy of education.

Since it still has diverse discourse areas, I have to pinpoint the chief discourse domains that I really want to join. 11:43, Thursday, 9/21/2017

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