書斎から見える視界が少しずつ開けてきたが、どうやら今日も天気は雨模様だ。昨年の今頃は、これほどまでに雨が降ることはなかったように思う。
この街で生活をするのは二年目であり、どちらが正常なのかわからないが、このように雨が続くのは少しばかり異常なように思える。雨の多さに相まって、気温に関しても、昨年よりも随分と低い。
今日は早朝に「実証的教育学」のクラスがあるため、暖かい格好をして出かけようと思う。今このように、外側の景色と今日のこれからについて書き留めたが、それは間違いなく何かから気をそらすためになされたものである。
やはり、昨夜見たあの不気味な夢についてもう少し自分なりに消化をしておく必要がある。夢のシンボルを生み出したのは私の無意識であり、そこには私に何かを伝えよとする意味が存在しているはずなのだ。
最も印象に残っている場面だけを取り出して再度夢について振り返ってみると、国道を渡る私の後ろをついてきた人々のあの虚ろな目を忘れることができない。人は希望を失うと、あのような目をするものなのだろうか。
人は生きる目的を見失ったとき、あのような空虚な目を持つことが可能なのだろうか。世界を空虚なものとしてしか見ることのできない空虚な目。それは極めて薄気味悪いものだった。
また、彼らの背中越しに見えた灰色や黒色の影は何だったのだろうか。それは物理的に目に見える影だった。
本来、目に見える影は地面に落ちるはずである。しかし、それが地面に留まっておられず、人の背中に張り付いたかのように見えたのである。
薄気味悪い影を背中に抱え、虚ろな目で下を向きながら歩くことしかできない人々は、意志を持つはずの人間には思えなかった。自分の意志を持たず、自分の目を失った人々が私の後を単につけてくる姿はとても不気味だった。
私が歩みを止めた後、彼らは一度進み始めた自らの足を止めることなどできず、惰性で歩き続けていた様子も印象に残っている。生きる目的を失い、自らの意思を喪失し、行動の判断軸を自分以外の何かに委ねてしまった人たちは、一度何かの行為を始めると、もはやその行為を辞めることができなくなってしまうのだ、ということを象徴しているように思えた。
現代社会を生きる私たちには、今どのような生きる目的があるだろうか。どのような充実感を持ちながら日々を生きているだろうか。
生きる目的を喪失し、日々に充実感を感じられなくなってしまった時、私たちは夢の中にいたあの人々のようになってしまう。空虚な目で世界を空虚にしか捉えることができず、日々の一瞬一瞬が惰性で過ぎ去っていく。それは人間が人間として生きる真の姿だと言えるだろうか。 横断歩道を渡る女性が車にはねられ、頭蓋骨がアスファルトに叩きつけらた時に発したあの鈍い音。あれは私たちを目覚めさせる一喝の音に思える。
その音で、夢の中の人々は確かに目を覚ました。空虚な目を捨てて、もう一度人間の目を持ったのである。
それは少しばかり、希望を投げかけているように思える。今、現代人がどれほど虚ろな目をしていても、再び自分の本来の目を取り戻せる可能性が残っていることを意味しているように思えるのだ。
ただし、それを引き起こすには、あのような一喝の音が必要なのかもしれない。夢の中の女性は、厳密には頭のてっぺんから地面に叩きつけられたのではなく、前頭葉のある額の部分からアスファルトに叩きつけられた。
前頭葉は、私たちの思考をつかさどる場所であり、意思的な判断をつかさどる場所である。現代人が自分の目を取り戻し、生きる意味を見出すためには、現在の思考と意思を打ち砕くような一喝の音が必要なのだろう。2017/9/13(水) No.185: Encounter with Myriads of Gods I had a dream to see tons of statues in a cave of the bottom of the sea.
These statues represented myriads of gods in this reality. I was struck with awe.
I was passing by each statue slowly to show my respect. Suddenly, every statue started to smile at me.
Their smiles made me relieved and peaceful from the bottom of my heart as if I could completely surrender myself to that moment.
I have never experienced such a sacred and blissful moment. Saturday, 9/16/2017